ニャート

旧「一橋を出てニートになりました」。出版社を過労で退職→引きこもり→派遣社員を経て、働き方や社会のあり方について思うことを書いています。

姪とレロレロ

私には、生後3ヶ月の姪がいる。

私は2人姉妹の長女で、自分には子どもがいない。
姪は私の両親にとって、長い間待ちに待った初孫だった。

冬休みに、久しぶりに姪に会った。
姪は、私と両親の住む町から、特急電車で1時間ちょっとの町に住んでいる。

たぶん普通の人なら、毎週末に通える距離だろう。
でも、私には電車に乗ると強い不安が生じるという訳わからん持病があり、体調のよい時しか行けないのである。

2ヶ月ぶりに姪に会ったら、笑うようになっていた。

私は、何としても、姪の笑顔の写真をたくさん持ち帰りたいと思った。

姪に会えない間、両親と私は、繰り返し姪の写真を見ている。
LINEでビデオ通話もするが、そんなに長時間の通話もできない。
なので、こちらの都合でずっと眺めていられる何かを、滞在中に絶対手に入れたかった。

しかし、笑顔の写真を撮るのは難しい。

姪が笑顔になって、さあ撮ろうとカメラを向けると、とたんに普通の顔に戻ってしまう。
ちょうど滞在中に、声を出して笑うことを覚えた時期だったこともあり、かなり工夫しないと笑ってくれない。

定番のいないいないばあでも笑ってくれない。
試行錯誤した結果、高速で舌をレロレロと出し続けると、笑ってくれることを発見した。

たぶん、これまでそんな、良く言えばオーバーリアクション、普通に言えばアホみたいな表情をする人を見たことがなかったのだろう。
あんなに苦労したのに、いとも簡単に笑ってくれるのだ。

レロレロレロレロレロレロレロレロ……。
あーうー、あーうー。
レロレロレロレロレロレロレロレロ……。

途中の「あーうー」というのは、クーイングというやつである。
姪はまだ言葉は話せないが、姪の出すあーうーを真似て、目を見つめて同じ口の形と音程であーうーと返してやると、イルカの通信みたいに、無限にあーうーコミュニケーションができるのだ。

カメラを握りしめ、「○○たんー、レロレロレロレロ…、あーうー、あーうーー…」と、赤子に向かって舌を出し続け、シャッターを押しまくる中年独身女の姿は、さながら狂人である。

途中、スマホが勝手に起動し、「レロレロ」を音声検索した。

妹夫婦にも爆笑され、妹の旦那に「おねえ、頭大丈夫ですか」「おねえを動画に撮って、テレビに応募していいですか」と言われる始末である。

このように、自我も羞恥も捨てて無我の境地に至り、レロレロひとつで解脱に至りそうなほど精進した結果、いい写真がたくさん撮れた。
私は満足して、そろそろこの気狂いをやめようと思った。

だが、姪を見ると、私の口をじっと見ている。
そして、気のせいか舌をチロチロ出し始めている気がする。

あれ?
そう思った次の瞬間、姪は立て続けに舌を思いっきり出した。
レローン、レローン、レローン。

あれ、偶然かな?
なおも、姪は私を見て、舌を出し続ける。
レローン、レローン、レローン。

姪の舌が届く最大限の長さを目指して、大胆に舌を出し続ける。
いつもの、ちろっと可愛く舌を覗かせる動作とは、明らかに違う。

あっ、これ真似してるんだ。
思わず動画に収めてしまった。

「おねえ、まずいっすよ。はい、○○たん、だめだよー」

しまった。
姪に気狂いの境地を伝授してしまった。
もう真似ができるとは思っていなかったのである。

妹はけらけらと笑っていたが、妹の旦那は手慣れたもので、さっとほ乳瓶を加えさせた。
しばらく飲ませて、これで忘れてくれるかなと思ってほ乳瓶を外すと、私を見てレローンする。

「○○たん、だめだよー、お口の形が変になっちゃうよー。お風呂に入って、ねんねしようねー」

幸い、お風呂に入ったら忘れてくれたらしく、以降はレローンしなかった。
私は心配で、姪の視界に入らないところから(私を見ると思い出すので)、ずっと姪がレローンしないかはらはらしながら見守っていた。
これって変な影響とかないよね、とググり続けた。

* * *

次の日(今日)は、私が帰る日だった。

お別れの前に、しばし姪と遊んだ。
もうレロレロできないので、笑顔の口の形であーうーあーうーイルカ通信していたら、やっぱり少し覚えているのか、昨日レローンする前にやっていた、舌をチロチロする動きを繰り返す。

レロレロは? 今日はレロレロはやらないの?

そんなことを言いたげな口の動きで、レロレロを誘うのである。

ごめんね、もうレロレロは封印なんだよ。

私はそんな気持ちを込めて、悲しげに「あーうーー」とクーイングし、レロレロをやらないでいると、姪はちょっと不機嫌になって、不満げに「あーうー」と返してきた。

ごめんね、レロレロのことは忘れてね。
そう思いながら、すべすべした真っ白なほっぺたをなでて、自宅へと帰った。

* * *

帰りの特急電車の中で、何回も姪のレローン動画を見た。

明日には、姪はレローンを忘れてしまうだろう。

もし私が母親だったら、面白いからレローンを仕込んでしまったかもしれない。
現実の、レローンを忘れるだろう姪と、私だけの仮定の中の、レローンを忘れない姪。

姪は、すごい勢いで成長していく。
今日のあーうーと、明日のあーうーは違う。
やがて、あーうーも卒業していく。

この動画は、私の気狂いにあーうーしか言えない姪が答えてくれた、二度とは撮れない、一瞬の共犯の記録なのである。

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「ひきこもり新聞」はなぜ「新聞」なのかを考えた

今年もよろしくお願いします。
「このブログはしばらく個人的なメモ書きになります」で書いたように、しばらくは、気になったことについて簡単に書きとめる(深堀りしない)ということを繰り返していきたい。
1月9日まで休みなので、それまで毎日書けるといいな。

* * *

ひきこもりの人や、ひきこもりの経験がある人たちが、2016年11月に「ひきこもり新聞」を発刊したというニュースを読んだ。

ひきこもり新聞創刊

新聞の編集部員は20~50代で、女性もいるとのこと。
編集長の木村さん(32歳)は、マスメディアが伝える「ひきこもり=無能で無気力で、努力をしない人間」というイメージを覆したくて、新聞の発行を決めた。

ニュースから、衝撃的だったところを引用する。

そして去年5月、突然、両親が警察官を連れて木村さんのもとにやってきて、無理やり自宅から引き出されそうになったと言います。
また、若いころには中学校で教べんをとった経験もあり、常に社会復帰を望んできたと言う50歳の男性は「私は諦めていない。いつでも働きたいという意欲はある。だから苦しい。たとえ中高年でも、やる気のある人は新人として受け入れられる社会になってほしい」と訴えました。
40歳の女性は「ひきこもりの人はみな、お金に苦しんでいて、バイトの面接で出した履歴書を返して欲しいと言う人も多くいる。公的な就職支援の対象年齢は、39歳までのところが多く、40歳になって強い焦りを感じている」と話し、ひきこもりの人が置かれている社会的な構造から解きほぐした記事を書くべきだと訴えました。

あと、「ファイナンシャルプランナーらが、中高年のひきこもりの子どもを抱える高齢の親たちの生活設計について、相談を受け付ける座談会」というのが出てくるが、これは目の付けどころが良いビジネスだと思ったので、参考にしたいと思った(小並)。

* * *

それで、この新聞を買おうと思って、サイトを検索した。
面白そうな記事もあり、じっくり読んで後で紹介したい。

ウェブ版「ひきこもり新聞」

1月号は「女性のひきこもり」特集だとのこと。
ひきこもり新聞1月号の発行日が決定いたしました!

「サポート会員募集!」と書いてあるので、「おお、なりたいなりたい」と思ってクリックしたら、残念ながら「詳細を作成中」だった。

* * *

さて、「ひきこもり新聞」は、なぜ「新聞」という形式を選んだのだろう?

「たくさんの人に読んでもらう」という目的なら、ウェブ版「ひきこもり新聞」をはてなブログでやった方が、目的を達成できそうに思える。

私のブログに「引きこもりが再び働きはじめた朝に」という記事がある。
これはBLOGOSにも転載されたが、BLOGOSでのPVは、はてなの約10分の1以下だった。
他の記事でそこまでPVに差がついたことはなく、はてなでは、ひきこもりやニートなどの記事は読まれやすいのかもしれないと思った。
たぶん、phaさんが下地を作られたからなのだろう。
だから、ひきこもりやニートの人は、はてなブログをやるといいと思う。

脱線したけど、「新聞」を選んだのは、ひきこもり当事者の「親」という存在を意識してなのではないか、と勝手に思った。

「引きこもりが再び働きはじめた朝に」 で、まだyoutuberがいなかった時代に、引きこもりだった私が動画制作に熱中して、父と対立した話を書いた。
父は60代だから、そこまで年ではないのだけど、「ブログや動画で稼ぐことができる」と言っても理解できない。
ネット上の活動が、そのままリアルにつながる可能性があるということが、どうしても理解できないのだ。

だから、このブログのために私がパソコンに向かっている時間が多くなると、父は心配していた。
態度が明らかに変わったのは、外部サイトから原稿を依頼されるようになってからだ。
「原稿依頼」はさすがに理解できたようで、そこから180度一転して、ブログを応援しだすようになったのだ。
(ここまで書いて、ちょっと面白くなって笑ってしまった)

私の父の例は極端だけど、ひきこもりの人が、身内からのイメージを回復するのは、年代間のギャップも手伝って、かなり大変なように思える。
だから、「新聞」なのだろうなと思った。

親の世代に、「ウェブ版ひきこもり新聞は○PVあって、たくさんの人に読まれているんだ」とアピールしても、たぶんピンとこない。
でも、「ひきこもり新聞は〇部売れたんだ」なら、たぶん理解される。

ひきこもりの人が普通のレールに再び乗るのは、おそらくかなり大変だ。
だから、自分のレールを自分で作る必要が出てくる。
そのレールは当然ながら普通とはちがう形なので、親が納得しづらいこともあるだろう。
「そんなことをやる暇があったら、普通に働きなさい」と言いたくなるだろう。

だけど、ブランクがある人が、普通に働く機会を得ることはとても難しい。
そして、普通とはちがう自分オリジナルのレールが、思わぬ道を切り開いてくれることもある。

だから、ひきこもりの親にも柔軟な考え方が求められるのではないだろうか。

引きこもりが再び働きはじめた朝に

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追記:
編集長の方が、既にはてなブログをやっているという情報をいただいた。
なので、この方にコンタクトを取ってみて、ちょっといろいろ聞いてみたい(受けてもらえるか分からないけど)。

ひきこもり新聞を創った人のブログ

このブログはしばらく個人的なメモ書きになります

しばらくブログを更新しませんでした。

理由の一つは、体調が悪かったからです。

私の持病はパニック障害で、とはいえ3年前に寛解していますが、季節の変わり目などには症状が出ます。
発病が12月だったからか、秋~冬が苦手です。

夜中に胸が痛くて起きる。
「このまま死ぬんじゃないか。いや、これはいつものパニック障害の症状だ。いやいや、今度こそ本当の心臓発作なんじゃないか」という煩悶を繰り返す。
不安でなかなか眠れず、睡眠時間が足りなくなる。
よけい体調が悪くなる。

こう書いてみると、他人からは馬鹿げて見える症状に振り回され、10月後半から今まで、私の生活は「睡眠時間の確保」を中心に回っていて、ブログを書く時間と気力がありませんでした。

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寄稿した記事一覧(都度更新)

ありがたいことに、2016年5月頃から、このブログを通じて寄稿のお話をいただくようになりました。

2017年9月までは、オンサイトでの翻訳業務のため、ライティングのお仕事は積極的に受けていませんでしたが、2017年10月からはライティングのお仕事メインで活動していきます。

また、このブログは日本最大級の提言型ニュースサイトでもあるBLOGOS様にも転載されています。
ニャートの記事一覧|BLOGOS

* 以下、新しい順で都度更新 *

ONE CAREER様

www.onecareer.jp

www.onecareer.jp

www.onecareer.jp

りっすん様

オランダの短時間正社員制度について、なぜそうした制度が生まれて広まったのかについて書いています。
こういう記事をどんどん書いていきたい、という気持ちはありますが、いま(2016年12月現在)は体調がよろしくないので、次にこういう記事が書けるのは春なのかなあ…と思っています。
www.e-aidem.com

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私が思う「心が弱い人と強い人のちがい」

心が弱い人と強い人のちがい

ある人が自殺したときに、「そんなことで死ぬなんて」と言う人がいます。
Aさんには「そんなこと」でも、Bさんには同じことが死ぬほど苦しい場合があります。

たとえば、身長148cmのきゃしゃな人と、身長190cmの筋骨隆々な人がいるとします。
どちらが肉体作業に向いていないかは一目で分かるでしょう。

そんなふうに、心が弱い人と強い人のちがいが一目で分かるといいなと思い、それぞれの心の許容量を入れ物にたとえてみました。

心が弱い人と強い人のちがいを、感受性と心の許容量を入れ物に例えて示した図

心が弱い人は、口は大きいのに容量は小さい、不安定な入れ物です。
同じ量の雨(つらいこと)が降っていても、心の弱い人の入口(感受性)は広いため、雨がいっぱい入ってきます。
なのに、容器(心の許容量)は小さいため、すぐにあふれてしまいます。

また、同じ量の雨でも、一つ一つの雨つぶ(つらい事実)の受けとめ方も、弱い人と強い人ではちがいます。
たとえば、「家族とケンカした」という雨つぶ(事実)があります。
強い人は、「ケンカしたという事実」+「繰り返さないための改善点」+「少し嫌な気持ち」くらいで、そのことは忘れてしまいます。
弱い人は、「ああすればよかった」「こうすればよかった」「でも、向こうもこんなこと言ったんだし…」「だけど、私もああすればよかった」の無限ループで、雨つぶの大きさが2倍3倍にふくらみ、気持ちが収まるまで、仕事のときもご飯のときも、お風呂に入っても布団に入っても、ずっとずっと脳内反省会議をしています。

感受性は、人によって全くちがいます。

アニメ漫画は好きだけど「規制しろ」の声を完全否定できない自分がいる

上の記事に、ちょうどいい例がありました。
Aさんは「過去に戻ってやり直したい」といつも思うのに、Bさんはそう思ったことがないという話です。
(その先の、マンガやアニメがなかったら、過去に戻りたいという発想自体がなかったのではないか、という仮定には「そーかな?」と思いますが)

私もこれを読んだとき、「えっ、過去に戻りたいと思ったことがない人なんて、この世にいるの?」と驚愕しました。
私は一時期、朝から晩まで「あの時ああすればパニック障害にならないですんだのに」「あの時こうすれば仕事を辞めないですんだのに」とばかり考えていたからです。

心が弱い人は感受性にフィルターをかけよう

それでは、心が弱い人はどうすれば楽になるのでしょうか?

  • 容器の口(感受性)にフィルターをかける
  • 容器に雨がたまったらすぐ出す
  • 容器(許容量)を大きくする
  • 自分の心が、入口は大きいのに雨は少ししか入らない容器だと自覚する

このうち私がやったことは、感受性にフィルターをかけて、つらいことを考えないようにすることです。

私はパニック障害です。
この病気は、動悸・過呼吸・胸痛などが起きて「このまま死ぬのでは」とすごく不安になりますが、体に異常はなく、なぜか乗り物の中などで発作が出ます。
発作が起きたとき、苦しいけどそれでは死なないことは分かっているので、その苦しさから意識をそらすため、靴ひもを結ぶことに意識を集中することにしています。

何が言いたいのかというと、苦しみの中には「考えてもムダな苦しみ」と「考えることで次に生かせる苦しみ」があると思うのです。
過去に戻ってやり直したいと思っても、実際にやり直せるわけではない。
恋人にフラれて、恋人を恨んでも、彼女の気持ちは戻ってこない。
そういう苦しみは、考えてもムダな苦しみです。

パニック障害における発作の苦しみも、考えてもムダな苦しみです(※実際にはパニック障害ではない場合は除きます。見極めは難しいので、必ず病院に行ってください)
だから、ムダな苦しみは考えないよう、靴ひもを結ぶ(=いま目の前にある作業に全集中する)ことで、スイッチを切り替えます。
これは森田療法の一部を私がてきとーにアレンジしたものですが、他の苦しみにも応用できます。
たとえば「過去に戻りたい」と思ったときは、意識してちがうこと(実際に何かの作業をするとよい)をして、苦しいことは考えないようにします。

他にも、私は苦しみを「冷凍保存」するようにしています。
例えば、フラれた苦しみ。これは考えてもムダなので、考えたり整理したりすることなしに、そのまま心の奥に冷凍保存します。一切考えません。
それで、1年2年たったときに開いてみて、まだ苦しいかを確認します。たいてい時がたてば、当時の苦しみは薄れているので、そのまま忘れることができます。

さっき、「考えることで次に生かせる苦しみ」もあるといいましたが、実際にはほとんどないです。
過去に戻れたらああしたい、と考えるのは、次につながるように思えますが、それでも考えるのは一度きりでよいのです。
同じ失敗を繰り返さないためにどうすればいいのか、というのは何かに記録しておいて、後はもう何も考えないようにしましょう。

感受性が豊かなことはムダなのか|メンヘラの第七感

ここまでの話だと、感受性が豊かなことはムダに思えるかもしれません。

東日本大震災のとき、スピッツのボーカルのひとが、本人は被災していないのに震災うつになったことがありました。
被災していないのに、他者の苦しみや恐怖に共感して、うつになってしまう。
でも、そこまで感受性や共感力が強いからこそ、だれにも書けない詩の世界を紡ぐことができる。
感受性は諸刃の剣といえます。

私は、感受性や想像力はある方なのかもしれません。
たとえば、横断歩道を渡るたびに、「ここで車にひかれた私はどうなるのだろう」とパラレルワールドの私について考えたり、「いや、本当は車にひかれて死んだのに、そのことに気づいていないのではないか」と地縛霊になった私について考えたり、それを横断歩道を渡る10秒くらいの間で目まぐるしく考えます。
または、ある女性にブログをほめてもらった時、すっかり舞い上がってしまって、その人と実際出会って、「赤毛のアンとダイアナみたいにランプの灯で信号を送りあって、友情を確かめあいたいな」「いや、そんなことしないで一緒に住もうよ」と一緒に住むことになって、毎日好きな本について語り合って、おばあちゃんになって白髪が生えてもイチョウ並木を落ち葉を拾いながら歩いたりして、ある日その人は揺り椅子の上で読みかけの本を開いたまま微笑みながら儚くなっていた…というイメージが、3分くらいで走馬燈のように駆けめぐり、あまりに悲しくて泣いてしまったりとか。

この想像力が、パニック障害の発作時には「自分を襲うありもしない恐怖」にすべて捧げられるのですから、たまったものではありません。
想像力ゆえに、自分で自分を過剰に苦しめている。
フィルターをつければ、そこには恐怖などありもしない。ふつうの人には見えない。
鈍感力がある人は、私のことを「何てムダに気力を浪費しているんだ」と思うでしょう。

私は、こうした感受性のことを「メンヘラの第七感」と呼んでいます。
いらない能力なのかもしれません。
でも、同時にこれは個性であり、想像力の源であり、スピッツのボーカルのひとみたいに適切な形で昇華されれば、すぐれた作品になり得ます。

第七感を持っている人は、ふだんはフィルターをかけて日常生活をやり過ごしつつ、その「能力」を昇華できる道を見つけることができるといいなと思います。

(世の中はあまりに厳しいので、私は、このブログを読んでくれる人くらいには、束の間安らげるような言葉をかけていきたいと思います)

「敏感すぎる自分」を好きになれる本

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