ニャート

旧「一橋を出てニートになりました」。出版社を過労で退職→引きこもり→派遣社員を経て、働き方や社会のあり方について思うことを書いています。

「他人や政治のせいにするな!」|成功者は、自らに運があったことに気づかない

最近、本田圭佑選手の、自殺に対するツイートが炎上した。

「他人のせいにするな! 政治のせいにするな!! 生きていることに感謝し、両親に感謝しないといけない。今やっていることが嫌ならやめればいいから。成功に囚われるな! 成長に囚われろ!」

本田選手は既に、ツイートの文意を補足済みである。

メッセージとして伝えたかったのは「死なないでほしい」、「生きていればいつか良いことがある」、「良しとする基準は自分が作ればいい」、「出来ることを見つけて少しずつ進んでほしい」ということなんです。

さて、若い人に死なないでほしいなら、「他人のせいにするな! 政治のせいにするな!!」ではなく、「自分のせいにするな!」とアドバイスした方が効果的だ。

しかし今日は、だれよりも努力しただろう本田選手が、なぜ「他人のせいにするな! 政治のせいにするな!!」と言ったかを推察してみたい。

成功=能力+気力+運

成功するためには、「能力+気力+運」が必要だと思う。

気力には、いわゆる気合や根性、精神力などを含める。

たとえば、「能力+気力+運=100以上」で成功する、という式があったとする。

成功=能力+気力+運

AさんとBさんは、能力と気力の初期値は同じだったが、運だけがちがった。

具体的には、Aさんは金持ちの家に生まれ、Bさんは貧しい家に生まれた。
Aさんは、能力や気力を伸ばせる環境に恵まれたが、Bさんは教育を受けるお金がなかった。

結果、Aさんは成功し、Bさんは失敗した。

成功した人は、自分には運があったことに気づかない、または忘れてしまう。
そして、自分は能力と気力だけで成功した(成功者バイアス)、と思いこんでしまう。

そして、AさんがBさんに、「成功できなかったのは、能力と気力が足りないからだ」と言う図式が生まれる。
本当は、能力と気力は同じ値だったのに。

なぜ成功者は「気力」を強調するのか

先ほどのBさんの例のように、成功するには「運」が最も必要だと、私は思う。

だが、成功者は「気力」の大切さばかりを強調する傾向がある。
ブラック企業にありがちな、「気力があれば何でもできるっ!」ってやつだ。

その理由は、2つあると思う。

  • 能力・気力・運の中では、気力のコントロールが一番簡単なように「見える」から
  • 気力を強調すると、他人を責めるのが簡単だから

能力と運は、自分でコントロールするのが難しい。
対して、気力は自分でコントロールできるように「見える」。

「能力がない」「運がない」と他人を責めても、対処法が少ないのでムダだ。
対して、気力は無制限なように「見える」ので、「気力がないから成功しない」と他人を責めるのが簡単だ。

なぜ、他人や政治のせいにしてはいけないと思われているか

さて、だれよりも努力した、つまり気力を発揮したであろう本田選手が、なぜ「他人のせいにするな! 政治のせいにするな!!」と言ったのかを推察してみる。

成功には、ある程度の気力(=努力し続ける、集中し続ける)が必要だ。

たとえば、出世に必要な気力を100とする。
途中で、「社畜にならないと出世できない日本は嫌だ!」と批判に熱中したら、そちらに気力が逃げてしまって、気力が100に足りずに失敗してしまう。

だから成功者は、「他人のせいにするな! 政治のせいにするな!!」(=そんな暇があったら集中しろ)と言いたくなるのだろう。

しかし、気合や集中は、諸刃の剣である。

確かに、「あること」を成しとげるのには盲目的な集中が必要だが、そうすると、「あること」が持つ問題点に気づきにくくなる。
結果、働きすぎの問題点に気づかないまま、集中して働いて廃人になる事態が、日本各地で起こっているのだと思う。

だから、そのカラクリを知っているブラック企業経営者が、「気力で何でも乗りきれる、そうじゃないならまだ気力が足りない」と言うのだろう。

実際には、気力は無制限ではない

気力は、自分でコントロールできて無制限に出せる、と思われがちだが、実際にはそんなことはないと思う。

能力と同じで、生まれつき持つ気力の量は、一人ひとり違う。
能力とは違って、一度使い切ると回復は大変だ。

私は、20代のときに過労で病気になったが、そのときに一生分の気力を使い切ったのではないかと思っている。
普通の人には何の苦もない週40時間が、私の気力ではギリギリで、休日は何もできない(だからブログの記事も人より少ない)。

自分に運がないことを嘆くなら、だれも傷つけない

本田選手が「他人のせいにするな! 政治のせいにするな!!」と言ったように、自分の苦境を何かのせいにするのは、なぜか非常に嫌われる行為である。

それは、非正規雇用が増加した小泉・竹中政権から定着してしまった「自己責任」という言葉のせいだ。
「非正規雇用になったのは自己責任」というやつである。

自殺したいほど自分を責めている人は、「自分が苦しいのは、運がなかったせいだ」と思ってほしい。

実際、非正規雇用で苦しむ氷河期世代と、人手不足で引く手あまたの20代前半と、生まれた時代が良いか悪いかの「運」以外に何が違うのか?

苦しみを吐き出さずに、何のせいにすることもできず、自分を責めてばかりでは、もう死ぬしかない。
自分に運がないことを嘆くなら、他人のせいにするわけでもなく、だれも傷つけない。

そして、運は一定ではない。
ささいなことで好転するし、これからだって何が起こるか分からない。
だから、たとえ他人からみっともないと言われても、苦しみを吐き出して、生き抜いてほしい。

逃げたい人に「それは甘え」と言うより「短所をスルーできる戦略を考えよう」と言いたい

Twitterもやってます

個性が「弱い」人とじゃないと結婚する意味がない

anond.hatelabo.jp

すっごい魅力的なタイトルが現れたので、がまんできずに書いちゃう。

いい結婚相手=アクが弱い人=自分をゆずってくれる人

「今の時代に女が結婚する意味って?」

「いい結婚相手と結婚できれば意味があるし、そうでなければ結婚しない方がいいこともある」と、私は思う。

この場合の「いい結婚相手」って?

女として死んでる私が、皆さまがそうならないよう、失敗経験から考えたことを書くよっ

「いい結婚相手」とは、容姿・学歴・経済力なんてどうでもいい。
ただ、「アクが弱い人」、それだけ。

いいかえると、「ひねくれてない人」「こじらせてない人」「素直な人」「個性が弱い人」。

理由は、自己愛が強くないから。

自己愛が強すぎる人は、

自己愛>パートナーへの愛

になってしまい、自分をゆずれないから。

長所と短所は表裏一体の「個性」

長所と短所は凸凹である、と考える人は多いかもしれない。
でも、長所と短所は、実は同じ凸なのでは?

たとえば、恋愛のはじめは「押しが強くてステキ」と思ってた面が、おわりには「うざい」に変わることってある。

それって、相手の「押しが強い」長所が「うざい」短所に変化したのではなく、「押しが強い」という個性(凸)に対する自分の見方が変わっただけだと思う。

つまり、個性(凸)はそのままなのに、見る人によって、長所にも短所にもなる、ということ。

イガイガこんぺいとう理論

凸は、みんなに同じだけあるんじゃなく、多い人と少ない人がいると思う。
そんで、ひとりの人の中でも、長い凸と短い凸がある。

個性(凸)は、人をひきつける魅力でもあるけど、アクでもある。

イガイガが多いコンペイトウはのどで引っかかる。
凸が多い(=個性が強い)人は人ざわりが悪く、凸が少ない人はまろやかなのでは、というのが私の仮説。

個性が弱い人の方が、自分をゆずってくれる

私は若いころ、頭がよくて(=学歴じゃない)才能を感じさせる人が好きだった。

ふつうの人と話すと、物足りなさを感じてた。

でも、ある時期を過ぎると、その才能(凸)が、カレーを何日も食べ続けたかのように、重く感じられてくる。
はじめは「話が面白い」と思ってたのに、おわりには「自分の話ばかりしてうざい」と思ってしまう。

対して、結婚相手についてのろける女性っているけど、その場合、相手は個性が弱い(=凸が少ない)ことが多いと気づいた。

たとえば、「私の作ったものは、どんなテキトーなものでも、おいしいって食べてくれる」旦那さんがいる。
これって、(奥さんが料理上手ってのもあるけど)旦那さんに食のこだわりが少ないんだと思う。

食にこだわりがある人は、たとえ奥さんが料理上手でも、テキトーなものを素直においしいって言ってくれることは少ない。
常に、「オレの基準」があって、愛しい相手が作った料理でも、その基準はゆるがない。

「オレの基準」への自己愛>パートナーへの愛

になってしまう。

個性が強い人は、自己愛やこだわりが強すぎて、自分をゆずれない。

結婚生活は共同作業で、お互いゆずりあうことが前提だから、そういう相手だとつらい。

だから私は、若いうちに、凸が少ない相手を物足りないとか思わないで、金のわらじ(古い)をはく気持ちで探しておけばよかったって後悔してる。

自己愛やこだわりが、攻撃に変わることがある

3年前くらいに、当時の職場の知り合い(Aさん)から告白されて、一瞬つきあった。

Aさんは30代後半だったが、つきあう人は私で2人目と言ってた。

それは、Aさんが110キロ超(って言ってた)で、ハゲてて、そのクールのアニメ全部を録画する人だったのも関係するかもしれない。

私は男性の容姿やオタク度(や学歴や年収)はどうでもいいので、Aさんが告白してくれたからOKした。

つきあって最初のデートで、出かけた先でごはんを食べていたとき、観光地の話になった。
何も考えずに、「そこ、大学生のときに彼氏と行ったことがあるけど、いいところだったよ~」と言った。
(これは何度も思い返したのだが、それ以上よけいなことは言ってない)

そしたら、Aさんは黙りこんでしまった。

理由がわからなかったが、「何か気にさわることを言ってしまったならごめんなさい」と謝った。
それでもAさんは黙り続けて、帰りの電車の中でもそのままだったので、私はすっかり困ってしまった。

帰ってからメールがきた。

Aさんは、大学生のときに彼女がいなくて、とてもつらかったらしい。
だから二度と、昔つきあってた幸せを感じさせる話はしないでほしい、とのことだった。

私が好きだから嫉妬した、なら可愛いが、そうではなかった。
文面からは、Aさんを無視してきた女性全般への恨みが感じられた。

確かに、「大学生のときに彼氏と行った」という情報は必要なかった。
ふつうの話し方をしたつもりだが、Aさんの気にさわってしまったのかもしれない。
それに、そこまで思いつめてしまっているのも気の毒だ。

だけど、今この瞬間は(いちおう)私という彼女がいる。
望めば、今からいくらでも幸せになれるのに。

でもたぶん、大学生のときに若い彼女とつきあったんでなければ、今さらBBAの私とつきあって幸せになっても意味ないんだろうなとも思った。

Aさんの中では、女性全体への恨み(という自己愛)>>私への気持ち ということに気づいてしまった。

その後はギクシャクして、つきあいは終わってしまった。
(Aさんを傷つけたことは謝罪したけど、私はすぐ怒る男性はこわいので、その後は積極的になれなかった)

結婚する意味=私を大切にしてくれる人に出会えるか

最初に戻る。

「今の時代に女が結婚する意味って?」
「いい結婚相手と結婚できれば意味があるし、そうでなければ結婚しない方がいいこともある」

「いい結婚相手」というのは、つまり、「(私を)大切にしてくれる人」だと思う。

「大切にしてくれる人」=「お互いにゆずりあえる人」だと思う。

結婚は共同作業なので、常に自分がゆずるばかりではつらい。
できたら、お互いにゆずりあえる人でないとつらい。

そのためには、自己愛やこだわりは少ない方がうまくいきやすいのではと思う。
(自己愛が強くなければ、個性が強い人と結婚しても別に問題ない)

自分を大切にしてくれる相手に出会えないなら、結婚しない方がいいこともある。
たとえば、自己愛から常にモラハラしてくる夫なら、そんなんいない方がましである。

結婚する意味があるかないかって、結局、私を大切にしてくれる人に出会えるか出会えないか、ただそれだけだと思う。

……こう書くと、「お前はアクが強いけど、えらそうに人のこと言えるのか?」ってつっこまれるだろうな~。
当然、上に書いたこと全て、自分にブーメランとして返ってくるから、結婚しない(できない)ことにしたんだよ~。

あと、「自分が大切にされることばかり考えるな! 自分が相手を大切にしろ!」ってつっこみも来るだろうけど、やっぱ自分から働きかけるばっかじゃつらいんだよ~(経験より)。

皆さまは、私を反面教師として、出会いの多い若いうちに、大切にしてくれる人を探してくらはい。

追記:
「お互いにゆずりあうことを大切だと思うなら、Aさんを見切るのは早かったのでは?」(まあ私が見切られたんだけど)というのは、全くその通りだと思う。
私のように「傷つきたくない」という自己愛が強い人は、もっと相手のことを思って努力しましょう、という、まさに反面教師ですにゃ~。

息してるだけで月6万円かかる女を降りたい

失敗例から考えた、批判の受けとめ方と伝え方

ブログを書いていると、いただいたコメントについて「これは受けとめるべきか?」と悩むことがあります。
今回は、私の失敗例をもとに考えた「批判はどこまで受けとめるべきか、そしてどうやって伝えればよいか」についてメモしておきます。

批判/非難/中傷/意見のちがい

まず、言葉の定義から。(引用すべて:デジタル大辞泉)

批判:
1.物事に検討を加えて、判定・評価すること。
2.人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。

非難:人の欠点や過失などを取り上げて責めること。

中傷:根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること。

批判と非難のちがいは「責めているか/いないか」、非難と中傷のちがいは「根拠があるか/ないか」であることが分かります。

意見:
1.ある問題に対する主張・考え。心に思うところ。
2.(意見する)自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。異見。

私の中では「意見」はやわらかいイメージがありましたが、「批判する」も「意見する」も「相手の過ちを指摘する」という意味を持つようです。

アイデアを伝えることと批判のちがい

私は、一緒に何かをやる人とは「意見交換」をしたいと前に書きましたが、これはアイデア出しやブレストのことです。

アイデア:思いつき。新奇な工夫。着想。

ブレーンストーミング:米国で開発された集団的思考の技術。自由な雰囲気で、他を批判せずにアイデアを出し合い、最終的に一定の課題によりよい解決を得ようとする方法。ブレスト。

中には、「この目的のためには、こういう方法がありますよ~」と伝えることを、自分に対する「非難」と受けとってしまう人がいます。

そうした誤解を防ぐためには、最初に相手がアイデア出しを望んでいるかを確認してから、「これはアイデア出しですよ」(あなたを批判するものではないですよ)と宣言して始めるのがいいと学びました。

批判をどこまで受けとめるか

ブログを書いていると、批判をどこまで受けとめるかは悩むところです。
私は、難しく考えないで、これでいいのではと思います。

  • 事実誤認や迷惑行為は正す
  • エゴサーチ(自分の名前などでの検索)はしない
  • 攻撃的な文章は読まなくていい
  • 自分も直したい点への批判は受けとめればいい
  • 考え方や生き方など人格に関わる批判は、「非難」であることが多い

批判する側は、「俺の批判は、全文を注意深く読み、誤読せず、全部受けとめて、言動をすぐさま正せ」と思いがちですが、そんな必要はありません。

批判する権利もあれば、スルーする権利もあるし、相手が正しいとも限りません。

それでも、最低限修正が必要なポイント(事実誤認や迷惑行為)は修正しなければなりませんが。

自分も直したい点への批判は受けとめればいい

私は1年前に「エゴサーチをしない」と決め、はてなブックマークのコメントも読んだり読まなかったりします。

だけど、「嫌味な文章」「読みづらい悪文」などの、文章の分かりやすさに対する批判は、どんなものでも比較的受けとめて、直すよう努力をしています。

つまり、自分も直したい点への批判は受けとめて、別にこのままでいい点への批判はスルーすればいいと思います。

考え方や生き方など人格に関する批判は、「非難」であることが多い

たとえば、(これは私宛てではありませんが)「精神疾患で障害年金をもらうな」という批判。

批判の定義は「相手の間違いを正す」ですが、精神疾患で障害年金をもらうことは、別に間違いではありません。
だから、批判ではなく、非難(相手を責めること)になってしまっています。

相手を非難している人は、そのことへの自覚がないことが多いです。

「あなたのためを思って」「老婆心から」と言ったりしますし、受け入れないと「批判と非難のちがいも分からないのか」と怒ったりします。


まとめると、

  • 批判する権利があれば、スルーする権利もあるので、気楽に考える
  • 最低限必要なことだけ正し、自分が必要なことだけ受けとめればいい

で、よいのではと思います。

批判をどうやって伝えるか

今度は逆に、批判を伝えたいときはどうすればよいのかを考えてみます。
失敗談をもとにしているので、私も全然できていません。

  • 個人への批判はしない
  • どうしても批判したいなら、三倍返しにされる覚悟を持つ
  • シンプルかつ最低限の量で、強い言葉は使わず、淡々とした文体で
  • 「相手が間違っている」という認識は自分の主観に過ぎない、という観点を持つ

「お前が言うか」と言われるでしょうが、「個人への批判はしない」というのが、数々の失敗から至った私の結論です。

どうしても批判したいなら、三倍返しにされる覚悟を持つ

自分が先に批判したのに、いざリアクションを返されると、怒ったり記事を消したりする人を見かけます。

忘れがちですが、批判は双方向のコミュニケーションですので、相手からの反応を想定したり、相手に効果的に伝える工夫をしたりする必要があります。

下手すれば恨まれて、言及で三倍返しにされることもあります。

だから、どうしても批判したいなら、その人と絶縁する可能性まで想定しておく必要があります。

シンプルかつ最低限の量で、強い言葉は使わず、淡々とした文体で

批判は、全部読んでもらえるとは限らないし、正しく伝わらないことが多いです。

相手が嫌がるような単語や手法(いくつか引用して理詰めで追いつめるなど)を使うと、全部読まれずに誤解されて、恨まれることもあるかもしれません。

批判に限らず、文章は、まず読んでもらって、正しく伝わらなければ、意味がありません。

そのためには、シンプルかつ最低限の量で、相手が嫌がりそうな強い言葉は使わず、淡々と平易に書いた方がいいと思います。

「相手が間違っている」という認識は自分の主観に過ぎない、という観点を持つ

何かを批判したい場合、「相手が間違っていて、自分が絶対正しい」と思いがちですが、その認識は危ういと思います。

世の中にはいろいろな考え方があります。
Aの立場から見れば相手が間違っているように見えても、Bの立場から見れば自分が間違っているように見えることもあります。

「相手が間違っている」という認識は絶対ではなく、自分の主観に過ぎない可能性もある、という観点を持つことは大切です。

まとめ

「相手が嫌がる表現を使ったら批判は伝わらないよ」「批判もコミュニケーションだからどういえば伝わるかは考えようね」「相手を殺したいから非難する人ははむケツぺんぺんだよ」

(これはハムスターのイラストです)

さて、このイラストは、私自身にもブーメランで返ってきます。

個人を批判しても、「わざわざ自分が批判する必要はなかった」「批判の伝え方が悪かった」ということになりがちです。

私のように血で血を洗う武闘派ブロガーになりたくなければ、個人への批判はしない方がいいでしょう。

はーむケーツぺーんぺんっ

(一部、笑いに昇華できていない部分があったので、削除しました)

(日記)当分は一人でやっていきたい

(今日はただの日記なので、それでもいいという優しい方だけお読みください)

2017年3月末までに仕事をやめると公言していたが、母の物忘れがひどくなったことでお金が必要になり、結局やめられなかった。
(これについては2月に記事を書いたが、書いたこと自体を後悔して消してしまった)

いまのところ、母の物忘れ自体はそれほど進行していない。
むしろ、母の多動や「耳鳴りが苦痛」という訴え等について、私は悩んでいる。
最近の悩みの70%くらいがそれである。

あと30%は、やりたいことがたくさんあるのに、仕事と母の世話とで、全然できないということだ。
サイレント革命とか言ってるくせに、田舎ぐらしもできない。
そう、大きい口ばかり叩いて、結局なんにもできていないのだ。

その焦りが、ブログを通して読者の方に伝わっていたのかもしれない。

あるブログから、"ニャート氏のphaさんへの言及ぶり(求愛表現?)に対して読者はどう思ってるのかなーとふと思った"というご指摘をいただいた。

うわあああ! 求愛! そういう風に見られていたんだ! 恥ずかしい! しにたい…… と、床をゴロゴロ転げ回った!

(この方を批判したいのでは全くありません。むしろ、この方は好意で私に「こうしたらいい」とアドバイスをしてくださっています。私が気づかなかったことに気づかせていただき、心から感謝いたします)

phaさんのことは非常に尊敬していて、考え方に刺激を受けることが多く、つい言及してしまいがちですが、それ以上のことは全く考えていません。

この方以外にも、同じように感じている方がいるかもしれないので、この場で訂正しておきます。


これはブログに書くつもりはなかったけど、実は、リアルで知り合った人(Aさん)と束の間つきあっていた。
ずっと母のことで悩んでいたので、逃げ場がほしかったのかもしれない。

だから、その期間(特に4月)に書いた記事を読み返してみたら、我ながら浮かれてて、本当にあたまがおかしかった。
そのあたまのおかしさが、phaさんに向けられていると読解した人がいるなら、それこそ本当に申し訳なく、今回いろいろ非表示にした。

さて、Aさんとはリアルで知り合ったので、私がブログを書いていることなど知らない。

私はリアルでは、自分の意見を言わないようにしている。
人の話を「うんうん、そうだね~」とうなずいて、ただ聞くだけを心がけている。
リアルの私は、ネットの私が持つ頑なさを持て余しているのだ。

だけど、Aさんには普段考えていることをちょっと話した。
そうしたら、引かれてしまって、距離ができてしまった。
その他いろいろあって、たぶんもうだめだろう。

Aさんから見たら、私がのんびりして「見えた」から近づいてきてくれたのに、実はこのブログのようなことを考える気の強い女だったなんて、ちょっとしたホラーだったろう。


私にはやりたいことがあるが、それには私が女であることは邪魔だというのが、最近至った結論だ。

最近、「いばや通信」のクラウドファンディングの結果を知って、とても衝撃を受けた。
ブロガーの坂爪氏には、実際にお金を出して支援してくれる人がこんなにもいるという衝撃。
これはやはり、多くの人に直接会って、友情と信頼を得た結果なのだろう。

私はお金はいらないけど、本当にサイレント革命をやりたいのなら、どこかのフェーズで多くの人に会って信頼を得る必要は生じてくるだろう。

一人ひとりの方から、「(私個人ではなく)私が描くビジョンのために何かしてやってもいい」という気持ちをいただいて積み重ねていく必要がある(今は全く何もできていない)。

そのためには、女であることは邪魔だと(さきほどのブログから指摘を受けるずっと前から)考えていた。

今回みたいな誤解を受けることもあるだろうし、何より、私自身が相手をフラットに見られなくなる。

だから、やりたいことが成就するまでは、恋愛も結婚もしないつもりだ。

(本当は、女だと公表すべきではなかったのだが、やりたいことの一つに「女性の貧困への言及」があるので、残念ながら避けられない)

こんなことを公言すること自体が、自意識過剰で気持ち悪いと思うが、これで最後にしたいので許してほしい。


さて、私は過去に「挫折した後どう生きたらいいのか、ライフハックを作りたい/心の病などで普通の職場では働けない人たちが、体調のいい時に分業しあえる仕組みを作りたい」と言ったため、「一緒に○○をやりませんか」と提言されることが結構あって、今もリアルタイムで2件ある。

その度に、「今はまだその時期ではないので、またいつか」とお断りしてきたのだが、しばらくはその方針でいようと思う。

当分は、一人でやっていきたい。

あと、だれかの企画への協力、というのも当分はやらないことにしたい。

私は、ブログから分かると思うが、頭でっかちな理想家である。

一緒に何かを作りあげる人とは、フランクに意見を言い合える関係になりたい(それが無理なら一緒には何もできない)、と考えている。

それは、出版社で働いていた時は当然のことだったし、プライベートでも、趣味で動画を作っていた時の友達とは自然にできていた。

だけど実際には、すごく難しいことなのだ。
動画時代の友達が、単に器が大きくて、私のわがままを許してくれていただけなのだ。

私にとって、「協力=目的達成のために最善を尽くす(その中には、意見を言い合う、も入る)」というのは前提で、そこを疑ったことはなかった。
だけど、「協力=(意見は言わない)支援」「協力=賞賛」を前提とする人もいることに気づいた。

その他、「自分では気づかないけど、他人とはちがう前提」というのが、きっと地雷のようにあるのだと思う。
ネットで知り合った人と、テキストのやり取りだけでそこまで詰めるのは不可能であり、無意識に相手を傷つけてしまう可能性が高い。

一緒に何かを作ったりするのには、まず毎日のように会って、実際に一緒に何かをやっていくというステップが必要だと思う。
そして、いまの私には(時間的に)それができない。

だから、私の至らなさで、敬愛している相手を傷つけないために、一律でお断りさせていただきます。ごめんなさい。

それでもなお、こんな頭でっかちな私でも仲良くしてやってもいいよ、時期が来るまで待つよ、という奇特な方だけ、気長におつきあいいただけると幸いです。

(ここのところ忙しくてブログが書けなかったのだけど、派遣の記事を書く前に、日本経済の停滞の理由について書く必要ができたので、次はそれを書くと思います。これ以降はしばらく、固い記事でいきます。何かない限り……)

非正規雇用者のサイレント革命(原案)

「今後、景気がよくなり、非正規雇用が減り、低年収層の年収が上がることはあるのか?」

それが知りたくて、GW中に経済やら現代史やらの本を読んだが、答えは「No」に思える。

非正規雇用の問題点は、「社会保障がない」ことと「賃金が低い」ことだ。

バブルが弾けるまでは、企業は終身雇用を前提に、手厚い福利厚生を社員に提供していた。
日本の社会保障制度は、上記を前提に設計されているので、非正規雇用者という存在は想定されていない。

これから高齢化により、社会保障費の負担が増えることは明らかだ。
非正規雇用者をカバーできるような新制度の財源は確保できないだろう。

かといって、非正規雇用を正規雇用にする、せめて賃金を上げられるほど、日本企業が再生できるかといえば、できないだろう。

例えば、新興国の工業化や情報技術の発展といった世界経済の構造変化に、日本の産業構造は対応できていない。
そのため、いくら金融緩和政策をとっても、一時的な株価上昇しかもたらさず、実体経済は回復しないだろう。

私が恐れる「これから」

私が恐れる、こうなってほしくはない今後の予想を書いておく(直感なので根拠はない)。

1.今の20代より下の世代は、人手不足のため正規雇用される。
氷河期世代(30代~)より上の世代だけが、非正規雇用のまま。
若い世代は正規雇用されるため「非正規雇用問題は解決した」とみなされ、氷河期世代以上は無視され取り残される。
2.AIは、給料が高い仕事(=コストがかかるから削減したい)から奪っていく。
地方によくある、最低賃金・非正規雇用の介護の仕事などには、AIは導入されない。
なぜなら、いま超低コストで(AIの導入が難しい)複雑な仕事につく人間を雇えているのに、中小企業においてコストをかけてまでAIを導入するメリットがない。
結果、低賃金のキツい仕事ばかりが残され、それを非正規雇用者が奪い合うようになる。

お金を稼ぐこと=自分のサービスを何かと交換してくれる人を見つけること

では、非正規雇用者はどうしたらよいのか。

唐突だが、「お金がない」とは「収入より支出が多い結果」である。

例えば、野山になっている柿はタダで食べられる。
だけど、同じ柿でも、誰かがもいで市場で売ると、値段がつく。

つまり、中間に入る人間が増えるほど、サービスは高くなっていく。

支出が多いのなら、できるだけ中間に人が入らないサービスを選ぶ(自給自足か直接交換)。
収入が少ないのなら、できるだけ中間に人を入れずにサービスを提供する。


伊藤洋志さんとphaさんの共著である「フルサトをつくる」という本がある。

フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

これは、都市に住む人が新たにもう一つの拠点「フルサト」を作るための本である。

「フルサト」とは、生存条件のハードルが限りなく低い(例えば、家賃が1万円とすごく安くて、食べ物も自分で作ったり、村の子どもに勉強を教えてその代金として食べ物をもらったりすれば、何とか死なないで生きていける)拠点のことだ。

そうは言っても、田舎に仕事などないのでは?

仕事といっても難しく考えすぎないでもいいと思う。先程述べたような街に買い物に行きたいけど行けないお年寄りを車に乗せてあげるとか、それが難しければ移動販売もよいと思う。もっとシンプルに、草刈りをするとかでもよい。

「えっ、そんなことでいいの?」と思ったのではないだろうか。

「お金を稼ぐこと」は実はシンプルで、「自分のサービスを、何かと交換してくれる人」が見つかればいいのだ。

直接交換することで、中抜きがなくなる。
交換代金は自分で交渉できるし、別にお金じゃなくても、1週間分の野菜とかでもいい。

田舎で生きるのに必要なお金は、衣食住+公共料金・保険・通信費・ガソリン代くらいだ。
会社に行かないなら、「衣」はジャージ3着もあれば十分だ。
「食」は、できる限り自給自足して、足りないものは村の子どもに勉強を教える代金としてもらったりする。
「住」は、この本によれば、田舎では月に家賃1万円で住むことも可能である。
(追記)車だが、この本の中では廃車寸前の車をもらっている。間に人が入らなければ、そういうこともできる。
(それ以外に、文化は必須だろう。それはこの本でも扱っているし、「自分で提供するサービス」にもなり得る)

年収97万円以下なら、所得税と住民税がかからない。
国民年金は、全額免除申請をする(氷河期世代が高齢者になる頃には、年金制度は破たんしているだろう)。

それなら、月6~7万円くらいで暮らせる。
「交換できるサービスなんて自分にはない」と心配な人は、時給700円×1日5時間×週3日、というすごくゆるい働き方でも、月42,000円になる。
あと2万円くらいなら、そういう生き方に興味がある人もいるだろうから、ブログでも書けば十分稼げる。

(こういうサービスが提供できる、という案はたくさんあるが、長くなるので実際に始める時に語る)

「自給力」という考え方

また、この本の中には「自給力」と「実質年収」という考え方が出てくる。

具体的には、年収が200万円でも自給力が300万円、つまり300万円の価値があることを自力で作り出せれば500万円の価値がある生活が送れる、という考え方である。

(中略)どれだけサービスを自給できるかは、実質年収に大きな差となって出る。

つまり、お金を出して買うサービスを自分で自給自足できたなら、お金を出したのと同じ分の価値ある生活が送れる、ということだ。

年収200万円で自給力ゼロの人が、食費に年50万かかるのなら、実質年収は200-50=150万円。
年収97万円で、年50万円分の食料を自給もしくは自分が持つサービスと交換で賄えるのなら、実質年収は97+50=147万円となり、暮らしぶりは同じである。
いや、年収200万円の人は税金をとられるため、年収97万円の人より暮らしぶりは悪くなる。

会社で働くのには、必要経費がかかりすぎる。
収入が下がっても、支出も下げ、自給力を上げればよいのだ。

非正規雇用者にとって「会社で働くことこそがリスク」

よく「会社を辞めることはリスク」というが、これは非正規雇用者にはあてはまらない。

なぜなら、「会社を辞めることは(起業などのチャレンジが失敗した時、再び正規雇用に就けずに非正規雇用に転落するから)リスク」であるため、非正規雇用者は既にリスクの中にいるからだ。

非正規雇用者にとっては、社会保障もなく継続雇用でもない会社で働き続けることこそがリスクだ。

例えば、アルバイトで働いていた会社の社長が給料を払わずに突然蒸発した時(こういう話は結構ある)、失業保険もなく家賃も払えず、もうNPOに助けてもらう以外どうしようもない。
それよりは、自給自足のために少しづつ田舎の畑を整備していく方が、よほど将来へのリスクヘッジになる。

これからの時代、非正規雇用者のような経済的弱者は、「中抜き」という強者のルールから外れた生き方を目指すべきだと思う。

なぜなら、弱者ほど中抜きされる世の中になってしまっているからだ。

それは、派遣社員や偽装請負の仕組みを考えれば、説明するまでもないことだと思う。

サイレント革命とは何か

佐藤優「右肩下がりの君たちへ」の中に、「30年後、東京都心に氷河期世代の高齢者スラムができるかもしれない」という主旨の記述がある。

そんな氷河期世代の運命に、一矢報いることはできないのか。

都心のスラムで死ぬ前に、もし、どこかの村に非正規雇用者ばかり集まって、自給自足と直接交換による独自の経済を回し始めたらどうなるか。

理論上は、お金さえもいらなくなる。
その地域で通用する交換券で足りるかもしれない。

つまり、強者のルールで回っている日本経済の輪から抜け出せる。

これって、静かな革命と言えるのではないか。

荒唐無稽な原案だが、私が今後取り組んでいきたいことは、究極的にはこういうことだ。

※「革命」という言葉を使っていますが、これは比喩であり、言うまでもないことですが、政治活動的な革命を起こしたいのではありません。私は右でも左でもなく、弱い立場の人がどうやったら幸せに暮らせるかを考えて実行したいだけです

※次回以降のどこかで、「データから見る派遣社員|海外との比較」を淡々と書きたいと思います

※「フルサトをつくる」は、上記の私の考えとは全く関係のない、いろいろと考えさせられる優れた本です

フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

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