ニャート

旧「一橋を出てニートになりました」。出版社を過労で退職→引きこもり→派遣社員を経て、働き方や社会のあり方について思うことを書いています。

エネルギー切れという死の形

今年の夏ごろに、こんな記事が炎上していた。

自殺しようとする人が、最後の晩餐としてファミレスのハンバーグを選んだ。
それに対して、銀座の高級店に行くなどの選択肢もあったのに、選択肢を想像する力がなかったのだ、という主旨だった。

それは、自殺する人を批判しているのではなく、「生きてさえいればもっといいことあるのに」と言いたかったんだと思う。

当時、そのことについて私はずっと考えていた。

私も、死ぬ前に食べたいものが特にない。

いつものご飯でいい。
じゃがいもとさやえんどうのみそ汁にご飯を入れて食べたい(下品ですまない)。

タイムリーに、そのブログを読んだ一週間後、少し離れた街に住む妹夫婦が遊びにきた。
そして、義弟が運転する車で、家から車で1時間ほど離れた港町に、寿司を食べにいったのだ。

外で寿司を食べるなんて、持病にかかってから、もう何年もなかった気がする。
義弟の車はベンツなので、車の乗り心地はよく、(持病の発作が出るため)普段は避けているドライブも快適だった。
新鮮な空気を深呼吸するような、生き返ったような心地で、夏日を受けてきらきらさざめく海を眺めた。

寿司もおいしかった。
何でこんなおいしいものを何年も食べに来なかったのだろう。
ほんの少し移動するだけで来れるのに。
これから定期的に食べに来ようと、その瞬間は誓った。

だけど、あれから4ヶ月。
やはり、定期的に寿司を食べに行っていないし、今後行く気もない。

分かっているのだ。
ほんの少し移動すれば素敵な体験ができるって。
だけど、その「ほんの少し」行動するための気力がないのだ。

死には、突発的な形だけではなく、日々少しづつエネルギーがなくなっていって、風船がゆっくりしぼむように死んでしまう形もあるのではないか。

冒頭のブログに出てくる、自殺しようとした人は、その前から起伏のない淡々とした日常を送っていたそうだ。
たぶんそこから、無意識に、ゆるやかな死を選んでいたのかもしれない。

でも、エネルギーが切れたからといって、死んでしまうのは早い。
じっとうずくまって、少しづつでも気力が回復してくるのを待つのだ。
その間に、自分を取り巻く情勢も変わってくる。
苦しいときほど、思考を止めて寝る。それが大事だ。

(……明日は11時頃、久々に社会問題についての記事を投稿します。
お昼休みにでも読んでくださいにゃ
↑すみません、やはり夕方にしまふ)