ニャート

パニック障害で退職→ひきこもり→非正規雇用の氷河期世代。だめ人間が何とか日常を投げずに生きていくためのメモ書き。

自分が「低スペック」だと思う時どうしたらよいの?(前編)

「『自分をADHDと思いこんでいるただの低スペック人間多すぎでは?』発言について思ったこと」を読んで、漠然と連想したことを書きます。

なお、連想なので、上記の議論の流れに全く沿っていません。

自分を「低スペック」とラベリングする必要ある?

まず、「自分を『低スペック』とラベリングする必要性があるのか」という疑問があります。

この「低スペック」という評価は、多くは職場や学校での評価によるものでしょう。
しかし、そうした評価は、評価する人・職務内容・環境などによって左右されます。

この話で、思い出す人がいます。
出版社にいた頃、ある上司が「無能」と罵っていたAさんのことです。

Aさんは、下記のような人でした。

  • 他部署から異動してきたため、編集経験がなかった
  • 仕事を覚えるのに、平均よりも時間がかかった
  • しかし、丁寧な仕事をする人で、良質な本を作った
  • 時間がかかるが評価は少ない、クレーム対応なども心を込めて行っていた
  • 皆の前で上司からヒステリックに叱責されても、冷静さを失うことはなかった
  • 子煩悩で、家庭を大事にしていた

その上司は、とにかく「仕事が早い」人を評価しました。
その結果、編集作業は全部下請けに丸投げで、上司が気づかないところで大きなミス寸前までいった同僚を「有能」と絶賛していました。

Aさんは、その後システム系の部署に異動させられましたが、そこでは正当に「有能」と評価されたと聞きました。

Aさんは、ある上司にとっては「無能」でした。
しかし、上司・業務内容・部署が変われば「有能」と評価されました。

だから、自分が「低スペック」ではないかと思った時に、

それは、どんな面で、だれが評価しているのか

ということを冷静に考えた方がいいでしょう。

たまたま、仕事ができないという評価を受けていても、家庭を大事にする良きパパを「無能」と一刀両断できるでしょうか。

職場や学校での評価=その人の全評価、ではありません

誰もが、適切な方向性の「努力」をできるわけではない

次に、「自分が低スペックなのを発達障害のせいにするな、努力しろ」という意見もあるのでしょうが、誰もが適切な方向性の「努力」をできるわけではないと思います。

私には、低スペックな一面があります。
(低スペックな自分を受け入れるには、「一面」とみなしておくと必要以上に悲観しなくてよいです)

  • 9時〜18時+残業という勤務体系を週5日行う「普通」の働き方ができない
  • 一定のリズムで働き続けることが難しい(ガッと大量にやって疲れて、もうできなくなる)

特に、1番目は致命的です。
私は過労でパニック障害になり、再発2回後、数年間はフルタイムで働いてきました。
ですが、いつも1番目について悩んでいます。

これを読んだ人は「努力しろ」と思うでしょう。
しかし、私も「自分なりの努力」はしています(だから働き続けてこれたのですから)。

さらに言うなら、私の経歴は大学だけムダに立派です(一橋)。
氷河期世代なので、今より受験競争が厳しかった頃に、高3の秋に文転して現役合格しているので、「努力」はしたと認めてもらえるのではないでしょうか。

しかしそれは、あとの人生と併せて考えるに、方向性を間違えた努力だったと思います。

後編で書きますが、私の母はおそらくADHDで、それは私にも遺伝しています。
だから、高校時代にすべきことは、量に頼んだガムシャラな努力ではなく、「毎日決まった時間に無理のない量の勉強をすることで学習習慣をつけ、ガリ勉しないで行ける大学に行く」ことだったと思います。

地元の大学に行って、(背伸びして出版社などに行かずに)地元の市役所に就職して、20代で結婚して子どもを産んでいれば、一橋に行き出版社に入ったはいいが過労でパニック障害になり以降ずっと非正規雇用で夫も子供もいない今より、ずっと幸せだったことでしょう。

母は、自らがADHDによる多動のため、とにかく何でもガムシャラにやることを正義と信じていました。
一番近い人がそうした考えのため、私もそのまま「努力」し続けて過労でパニック障害になるまで、自分の「努力」が適切な方向性のものではないと気づきませんでした。
いや、本当に気づいたと言えるのは最近なのです。

努力にも、効率性があります。
今は、かつて体育会系で行われていた、水を飲まずに走り込むことで精神性を鍛えるという「努力」が非効率であると皆知っているでしょう。

いわゆる、低スペックな一面のある人に必要なライフハックは、

自らを「低スペック」とラベリングして悲観することではなく、適切な「努力の方法」を知ること

ではないでしょうか。

苦手なことは、戦略的にスルーする

「自分をADHDと思いこんでいるただの低スペック人間多すぎでは?」という発言がされる社会(注:発言当事者ではない)には、

能力が低い人は叩かれて当然

という思想があると思います。

さらには、

その程度で【ADHD】と思い込むなんて、甘え

という思想も透けて見えます。
【】には、ADHDの代わりに、うつ病でも何でも入れることができます。

精神疾患にも多いのですが、自分より症状が軽い人がSNSなどで苦しさを吐露すると、「それしきで○○なんて甘え」という意見がたいてい出てきます。

とても悲しいことですが、苦しんでいる人・弱い人が、同じ弱い人で叩きやすい人を叩くという構図があります。


私は長いこと、自分に低スペックな一面があることを受け入れることができませんでした。
でも今は、「私は私」「死なないで生きているだけでえらい」と心から思っています。

なぜかというと、その方が楽だからです。私は楽になりたいのです。

日本には、上にも書いたように「能力が低い人は叩かれて当然」「能力が低い人は、そのことを自覚して苦しみ続けろ」という風潮があります。

ですが、ある一面で能力が低いといって、なぜ、自分を全否定して、引け目を感じて苦しみ続けないといけないのでしょうか?

仮に、ある一面で能力が低くても、自分の中で、人と比べずに絶対比で、比較的得意な一面もあるはずなのです。

「逃げたい人に『それは甘え』と言うより『短所をスルーできる戦略を考えよう』と言いたい」でも書きましたが、ある一面で能力が低い人に必要なのは、

数学が苦手な人が英・国で受験するように、自分が得意なことを伸ばして、苦手なことは戦略的にスルーする

ライフハックではないでしょうか。

まとめ

まとめると、

  1. 1.自分を「低スペック」とラベリングする必要性ってある?
    →ない。それは、どんな面で、だれが評価しているの?
    職場や学校での評価=その人の全評価、ではない
  2. 2.低スペックは「努力」で克服できるの?
    →適切な方向性で、効率的に努力することは難しく、まずは「努力の方法」自体を知ることが必要
  3. 3.ある一面で能力が低くても、自分が得意なことを伸ばして、苦手なことは戦略的にスルーできるように、生き方の戦略を考える

となります。

後編では、ADHDについて考えます。

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