ニャート

パニック障害で退職→ひきこもり→非正規雇用の氷河期世代。だめ人間が何とか日常を投げずに生きていくためのメモ書き。

私が思う「心が弱い人と強い人のちがい」

心が弱い人と強い人のちがい

ある人が自殺したときに、「そんなことで死ぬなんて」と言う人がいます。
Aさんには「そんなこと」でも、Bさんには同じことが死ぬほど苦しい場合があります。

たとえば、身長148cmのきゃしゃな人と、身長190cmの筋骨隆々な人がいるとします。
どちらが肉体作業に向いていないかは一目で分かるでしょう。

そんなふうに、心が弱い人と強い人のちがいが一目で分かるといいなと思い、それぞれの心の許容量を入れ物にたとえてみました。

心が弱い人と強い人のちがいを、感受性と心の許容量を入れ物に例えて示した図

心が弱い人は、口は大きいのに容量は小さい、不安定な入れ物です。
同じ量の雨(つらいこと)が降っていても、心の弱い人の入口(感受性)は広いため、雨がいっぱい入ってきます。
なのに、容器(心の許容量)は小さいため、すぐにあふれてしまいます。

また、同じ量の雨でも、一つ一つの雨つぶ(つらい事実)の受けとめ方も、弱い人と強い人ではちがいます。
たとえば、「家族とケンカした」という雨つぶ(事実)があります。
強い人は、「ケンカしたという事実」+「繰り返さないための改善点」+「少し嫌な気持ち」くらいで、そのことは忘れてしまいます。
弱い人は、「ああすればよかった」「こうすればよかった」「でも、向こうもこんなこと言ったんだし…」「だけど、私もああすればよかった」の無限ループで、雨つぶの大きさが2倍3倍にふくらみ、気持ちが収まるまで、仕事のときもご飯のときも、お風呂に入っても布団に入っても、ずっとずっと脳内反省会議をしています。

感受性は、人によって全くちがいます。

アニメ漫画は好きだけど「規制しろ」の声を完全否定できない自分がいる

上の記事に、ちょうどいい例がありました。
Aさんは「過去に戻ってやり直したい」といつも思うのに、Bさんはそう思ったことがないという話です。
(その先の、マンガやアニメがなかったら、過去に戻りたいという発想自体がなかったのではないか、という仮定には「そーかな?」と思いますが)

私もこれを読んだとき、「えっ、過去に戻りたいと思ったことがない人なんて、この世にいるの?」と驚愕しました。
私は一時期、朝から晩まで「あの時ああすればパニック障害にならないですんだのに」「あの時こうすれば仕事を辞めないですんだのに」とばかり考えていたからです。

心が弱い人は感受性にフィルターをかけよう

それでは、心が弱い人はどうすれば楽になるのでしょうか?

  • 容器の口(感受性)にフィルターをかける
  • 容器に雨がたまったらすぐ出す
  • 容器(許容量)を大きくする
  • 自分の心が、入口は大きいのに雨は少ししか入らない容器だと自覚する

このうち私がやったことは、感受性にフィルターをかけて、つらいことを考えないようにすることです。

私はパニック障害です。
この病気は、動悸・過呼吸・胸痛などが起きて「このまま死ぬのでは」とすごく不安になりますが、体に異常はなく、なぜか乗り物の中などで発作が出ます。
発作が起きたとき、苦しいけどそれでは死なないことは分かっているので、その苦しさから意識をそらすため、靴ひもを結ぶことに意識を集中することにしています。

何が言いたいのかというと、苦しみの中には「考えてもムダな苦しみ」と「考えることで次に生かせる苦しみ」があると思うのです。
過去に戻ってやり直したいと思っても、実際にやり直せるわけではない。
恋人にフラれて、恋人を恨んでも、彼女の気持ちは戻ってこない。
そういう苦しみは、考えてもムダな苦しみです。

パニック障害における発作の苦しみも、考えてもムダな苦しみです(※実際にはパニック障害ではない場合は除きます。見極めは難しいので、必ず病院に行ってください)
だから、ムダな苦しみは考えないよう、靴ひもを結ぶ(=いま目の前にある作業に全集中する)ことで、スイッチを切り替えます。
これは森田療法の一部を私がてきとーにアレンジしたものですが、他の苦しみにも応用できます。
たとえば「過去に戻りたい」と思ったときは、意識してちがうこと(実際に何かの作業をするとよい)をして、苦しいことは考えないようにします。

他にも、私は苦しみを「冷凍保存」するようにしています。
例えば、フラれた苦しみ。これは考えてもムダなので、考えたり整理したりすることなしに、そのまま心の奥に冷凍保存します。一切考えません。
それで、1年2年たったときに開いてみて、まだ苦しいかを確認します。たいてい時がたてば、当時の苦しみは薄れているので、そのまま忘れることができます。

さっき、「考えることで次に生かせる苦しみ」もあるといいましたが、実際にはほとんどないです。
過去に戻れたらああしたい、と考えるのは、次につながるように思えますが、それでも考えるのは一度きりでよいのです。
同じ失敗を繰り返さないためにどうすればいいのか、というのは何かに記録しておいて、後はもう何も考えないようにしましょう。

感受性が豊かなことはムダなのか|メンヘラの第七感

ここまでの話だと、感受性が豊かなことはムダに思えるかもしれません。

東日本大震災のとき、スピッツのボーカルのひとが、本人は被災していないのに震災うつになったことがありました。
被災していないのに、他者の苦しみや恐怖に共感して、うつになってしまう。
でも、そこまで感受性や共感力が強いからこそ、だれにも書けない詩の世界を紡ぐことができる。
感受性は諸刃の剣といえます。

私は、感受性や想像力はある方なのかもしれません。
たとえば、横断歩道を渡るたびに、「ここで車にひかれた私はどうなるのだろう」とパラレルワールドの私について考えたり、「いや、本当は車にひかれて死んだのに、そのことに気づいていないのではないか」と地縛霊になった私について考えたり、それを横断歩道を渡る10秒くらいの間で目まぐるしく考えます。
または、ある女性にブログをほめてもらった時、すっかり舞い上がってしまって、その人と実際出会って、「赤毛のアンとダイアナみたいにランプの灯で信号を送りあって、友情を確かめあいたいな」「いや、そんなことしないで一緒に住もうよ」と一緒に住むことになって、毎日好きな本について語り合って、おばあちゃんになって白髪が生えてもイチョウ並木を落ち葉を拾いながら歩いたりして、ある日その人は揺り椅子の上で読みかけの本を開いたまま微笑みながら儚くなっていた…というイメージが、3分くらいで走馬燈のように駆けめぐり、あまりに悲しくて泣いてしまったりとか。

この想像力が、パニック障害の発作時には「自分を襲うありもしない恐怖」にすべて捧げられるのですから、たまったものではありません。
想像力ゆえに、自分で自分を過剰に苦しめている。
フィルターをつければ、そこには恐怖などありもしない。ふつうの人には見えない。
鈍感力がある人は、私のことを「何てムダに気力を浪費しているんだ」と思うでしょう。

私は、こうした感受性のことを「メンヘラの第七感」と呼んでいます。
いらない能力なのかもしれません。
でも、同時にこれは個性であり、想像力の源であり、スピッツのボーカルのひとみたいに適切な形で昇華されれば、すぐれた作品になり得ます。

第七感を持っている人は、ふだんはフィルターをかけて日常生活をやり過ごしつつ、その「能力」を昇華できる道を見つけることができるといいなと思います。

(世の中はあまりに厳しいので、私は、このブログを読んでくれる人くらいには、束の間安らげるような言葉をかけていきたいと思います)

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