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ニャート

旧「一橋を出てニートになりました」。出版社を過労で退職→引きこもり→派遣社員を経て、働き方や社会のあり方について思うことを書いています。

(日記)当分は一人でやっていきたい

(今日はただの日記なので、それでもいいという優しい方だけお読みください)

2017年3月末までに仕事をやめると公言していたが、母の物忘れがひどくなったことでお金が必要になり、結局やめられなかった。
(これについては2月に記事を書いたが、書いたこと自体を後悔して消してしまった)

いまのところ、母の物忘れ自体はそれほど進行していない。
むしろ、母の多動や「耳鳴りが苦痛」という訴え等について、私は悩んでいる。
最近の悩みの70%くらいがそれである。

あと30%は、やりたいことがたくさんあるのに、仕事と母の世話とで、全然できないということだ。
サイレント革命とか言ってるくせに、田舎ぐらしもできない。
そう、大きい口ばかり叩いて、結局なんにもできていないのだ。

その焦りが、ブログを通して読者の方に伝わっていたのかもしれない。

あるブログから、"ニャート氏のphaさんへの言及ぶり(求愛表現?)に対して読者はどう思ってるのかなーとふと思った"というご指摘をいただいた。

うわあああ! 求愛! そういう風に見られていたんだ! 恥ずかしい! しにたい…… と、床をゴロゴロ転げ回った!

(この方を批判したいのでは全くありません。むしろ、この方は好意で私に「こうしたらいい」とアドバイスをしてくださっています。私が気づかなかったことに気づかせていただき、心から感謝いたします)

phaさんのことは非常に尊敬していて、考え方に刺激を受けることが多く、つい言及してしまいがちですが、それ以上のことは全く考えていません。

この方以外にも、同じように感じている方がいるかもしれないので、この場で訂正しておきます。


これはブログに書くつもりはなかったけど、実は、リアルで知り合った人(Aさん)と束の間つきあっていた。
ずっと母のことで悩んでいたので、逃げ場がほしかったのかもしれない。

だから、その期間(特に4月)に書いた記事を読み返してみたら、我ながら浮かれてて、本当にあたまがおかしかった。
そのあたまのおかしさが、phaさんに向けられていると読解した人がいるなら、それこそ本当に申し訳なく、今回いろいろ非表示にした。

さて、Aさんとはリアルで知り合ったので、私がブログを書いていることなど知らない。

私はリアルでは、自分の意見を言わないようにしている。
人の話を「うんうん、そうだね~」とうなずいて、ただ聞くだけを心がけている。
リアルの私は、ネットの私が持つ頑なさを持て余しているのだ。

だけど、Aさんには普段考えていることをちょっと話した。
そうしたら、引かれてしまって、距離ができてしまった。
その他いろいろあって、たぶんもうだめだろう。

Aさんから見たら、私がのんびりして「見えた」から近づいてきてくれたのに、実はこのブログのようなことを考える気の強い女だったなんて、ちょっとしたホラーだったろう。


私にはやりたいことがあるが、それには私が女であることは邪魔だというのが、最近至った結論だ。

最近、「いばや通信」のクラウドファンディングの結果を知って、とても衝撃を受けた。
ブロガーの坂爪氏には、実際にお金を出して支援してくれる人がこんなにもいるという衝撃。
これはやはり、多くの人に直接会って、友情と信頼を得た結果なのだろう。

私はお金はいらないけど、本当にサイレント革命をやりたいのなら、どこかのフェーズで多くの人に会って信頼を得る必要は生じてくるだろう。

一人ひとりの方から、「(私個人ではなく)私が描くビジョンのために何かしてやってもいい」という気持ちをいただいて積み重ねていく必要がある(今は全く何もできていない)。

そのためには、女であることは邪魔だと(さきほどのブログから指摘を受けるずっと前から)考えていた。

今回みたいな誤解を受けることもあるだろうし、何より、私自身が相手をフラットに見られなくなる。

だから、やりたいことが成就するまでは、恋愛も結婚もしないつもりだ。

(本当は、女だと公表すべきではなかったのだが、やりたいことの一つに「女性の貧困への言及」があるので、残念ながら避けられない)

こんなことを公言すること自体が、自意識過剰で気持ち悪いと思うが、これで最後にしたいので許してほしい。


さて、私は過去に「挫折した後どう生きたらいいのか、ライフハックを作りたい/心の病などで普通の職場では働けない人たちが、体調のいい時に分業しあえる仕組みを作りたい」と言ったため、「一緒に○○をやりませんか」と提言されることが結構あって、今もリアルタイムで2件ある。

その度に、「今はまだその時期ではないので、またいつか」とお断りしてきたのだが、しばらくはその方針でいようと思う。

当分は、一人でやっていきたい。

あと、だれかの企画への協力、というのも当分はやらないことにしたい。

私は、ブログから分かると思うが、頭でっかちな理想家である。

一緒に何かを作りあげる人とは、フランクに意見を言い合える関係になりたい(それが無理なら一緒には何もできない)、と考えている。

それは、出版社で働いていた時は当然のことだったし、プライベートでも、趣味で動画を作っていた時の友達とは自然にできていた。

だけど実際には、すごく難しいことなのだ。
動画時代の友達が、単に器が大きくて、私のわがままを許してくれていただけなのだ。

私にとって、「協力=目的達成のために最善を尽くす(その中には、意見を言い合う、も入る)」というのは前提で、そこを疑ったことはなかった。
だけど、「協力=(意見は言わない)支援」「協力=賞賛」を前提とする人もいることに気づいた。

その他、「自分では気づかないけど、他人とはちがう前提」というのが、きっと地雷のようにあるのだと思う。
ネットで知り合った人と、テキストのやり取りだけでそこまで詰めるのは不可能であり、無意識に相手を傷つけてしまう可能性が高い。

一緒に何かを作ったりするのには、まず毎日のように会って、実際に一緒に何かをやっていくというステップが必要だと思う。
そして、いまの私には(時間的に)それができない。

だから、私の至らなさで、敬愛している相手を傷つけないために、一律でお断りさせていただきます。ごめんなさい。

それでもなお、こんな頭でっかちな私でも仲良くしてやってもいいよ、時期が来るまで待つよ、という奇特な方だけ、気長におつきあいいただけると幸いです。

(ここのところ忙しくてブログが書けなかったのだけど、派遣の記事を書く前に、日本経済の停滞の理由について書く必要ができたので、次はそれを書くと思います。これ以降はしばらく、固い記事でいきます。何かない限り……)

非正規雇用者のサイレント革命(原案)

「今後、景気がよくなり、非正規雇用が減り、低年収層の年収が上がることはあるのか?」

それが知りたくて、GW中に経済やら現代史やらの本を読んだが、答えは「No」に思える。

非正規雇用の問題点は、「社会保障がない」ことと「賃金が低い」ことだ。

バブルが弾けるまでは、企業は終身雇用を前提に、手厚い福利厚生を社員に提供していた。
日本の社会保障制度は、上記を前提に設計されているので、非正規雇用者という存在は想定されていない。

これから高齢化により、社会保障費の負担が増えることは明らかだ。
非正規雇用者をカバーできるような新制度の財源は確保できないだろう。

かといって、非正規雇用を正規雇用にする、せめて賃金を上げられるほど、日本企業が再生できるかといえば、できないだろう。

例えば、新興国の工業化や情報技術の発展といった世界経済の構造変化に、日本の産業構造は対応できていない。
そのため、いくら金融緩和政策をとっても、一時的な株価上昇しかもたらさず、実体経済は回復しないだろう。

私が恐れる「これから」

私が恐れる、こうなってほしくはない今後の予想を書いておく(直感なので根拠はない)。

1.今の20代より下の世代は、人手不足のため正規雇用される。
氷河期世代(30代~)より上の世代だけが、非正規雇用のまま。
若い世代は正規雇用されるため「非正規雇用問題は解決した」とみなされ、氷河期世代以上は無視され取り残される。
2.AIは、給料が高い仕事(=コストがかかるから削減したい)から奪っていく。
地方によくある、最低賃金・非正規雇用の介護の仕事などには、AIは導入されない。
なぜなら、いま超低コストで(AIの導入が難しい)複雑な仕事につく人間を雇えているのに、中小企業においてコストをかけてまでAIを導入するメリットがない。
結果、低賃金のキツい仕事ばかりが残され、それを非正規雇用者が奪い合うようになる。

お金を稼ぐこと=自分のサービスを何かと交換してくれる人を見つけること

では、非正規雇用者はどうしたらよいのか。

唐突だが、「お金がない」とは「収入より支出が多い結果」である。

例えば、野山になっている柿はタダで食べられる。
だけど、同じ柿でも、誰かがもいで市場で売ると、値段がつく。

つまり、中間に入る人間が増えるほど、サービスは高くなっていく。

支出が多いのなら、できるだけ中間に人が入らないサービスを選ぶ(自給自足か直接交換)。
収入が少ないのなら、できるだけ中間に人を入れずにサービスを提供する。


伊藤洋志さんとphaさんの共著である「フルサトをつくる」という本がある。

フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

これは、都市に住む人が新たにもう一つの拠点「フルサト」を作るための本である。

「フルサト」とは、生存条件のハードルが限りなく低い(例えば、家賃が1万円とすごく安くて、食べ物も自分で作ったり、村の子どもに勉強を教えてその代金として食べ物をもらったりすれば、何とか死なないで生きていける)拠点のことだ。

そうは言っても、田舎に仕事などないのでは?

仕事といっても難しく考えすぎないでもいいと思う。先程述べたような街に買い物に行きたいけど行けないお年寄りを車に乗せてあげるとか、それが難しければ移動販売もよいと思う。もっとシンプルに、草刈りをするとかでもよい。

「えっ、そんなことでいいの?」と思ったのではないだろうか。

「お金を稼ぐこと」は実はシンプルで、「自分のサービスを、何かと交換してくれる人」が見つかればいいのだ。

直接交換することで、中抜きがなくなる。
交換代金は自分で交渉できるし、別にお金じゃなくても、1週間分の野菜とかでもいい。

田舎で生きるのに必要なお金は、衣食住+公共料金・保険・通信費・ガソリン代くらいだ。
会社に行かないなら、「衣」はジャージ3着もあれば十分だ。
「食」は、できる限り自給自足して、足りないものは村の子どもに勉強を教える代金としてもらったりする。
「住」は、この本によれば、田舎では月に家賃1万円で住むことも可能である。
(追記)車だが、この本の中では廃車寸前の車をもらっている。間に人が入らなければ、そういうこともできる。
(それ以外に、文化は必須だろう。それはこの本でも扱っているし、「自分で提供するサービス」にもなり得る)

年収97万円以下なら、所得税と住民税がかからない。
国民年金は、全額免除申請をする(氷河期世代が高齢者になる頃には、年金制度は破たんしているだろう)。

それなら、月6~7万円くらいで暮らせる。
「交換できるサービスなんて自分にはない」と心配な人は、時給700円×1日5時間×週3日、というすごくゆるい働き方でも、月42,000円になる。
あと2万円くらいなら、そういう生き方に興味がある人もいるだろうから、ブログでも書けば十分稼げる。

(こういうサービスが提供できる、という案はたくさんあるが、長くなるので実際に始める時に語る)

「自給力」という考え方

また、この本の中には「自給力」と「実質年収」という考え方が出てくる。

具体的には、年収が200万円でも自給力が300万円、つまり300万円の価値があることを自力で作り出せれば500万円の価値がある生活が送れる、という考え方である。

(中略)どれだけサービスを自給できるかは、実質年収に大きな差となって出る。

つまり、お金を出して買うサービスを自分で自給自足できたなら、お金を出したのと同じ分の価値ある生活が送れる、ということだ。

年収200万円で自給力ゼロの人が、食費に年50万かかるのなら、実質年収は200-50=150万円。
年収97万円で、年50万円分の食料を自給もしくは自分が持つサービスと交換で賄えるのなら、実質年収は97+50=147万円となり、暮らしぶりは同じである。
いや、年収200万円の人は税金をとられるため、年収97万円の人より暮らしぶりは悪くなる。

会社で働くのには、必要経費がかかりすぎる。
収入が下がっても、支出も下げ、自給力を上げればよいのだ。

非正規雇用者にとって「会社で働くことこそがリスク」

よく「会社を辞めることはリスク」というが、これは非正規雇用者にはあてはまらない。

なぜなら、「会社を辞めることは(起業などのチャレンジが失敗した時、再び正規雇用に就けずに非正規雇用に転落するから)リスク」であるため、非正規雇用者は既にリスクの中にいるからだ。

非正規雇用者にとっては、社会保障もなく継続雇用でもない会社で働き続けることこそがリスクだ。

例えば、アルバイトで働いていた会社の社長が給料を払わずに突然蒸発した時(こういう話は結構ある)、失業保険もなく家賃も払えず、もうNPOに助けてもらう以外どうしようもない。
それよりは、自給自足のために少しづつ田舎の畑を整備していく方が、よほど将来へのリスクヘッジになる。

これからの時代、非正規雇用者のような経済的弱者は、「中抜き」という強者のルールから外れた生き方を目指すべきだと思う。

なぜなら、弱者ほど中抜きされる世の中になってしまっているからだ。

それは、派遣社員や偽装請負の仕組みを考えれば、説明するまでもないことだと思う。

サイレント革命とは何か

佐藤優「右肩下がりの君たちへ」の中に、「30年後、東京都心に氷河期世代の高齢者スラムができるかもしれない」という主旨の記述がある。

そんな氷河期世代の運命に、一矢報いることはできないのか。

都心のスラムで死ぬ前に、もし、どこかの村に非正規雇用者ばかり集まって、自給自足と直接交換による独自の経済を回し始めたらどうなるか。

理論上は、お金さえもいらなくなる。
その地域で通用する交換券で足りるかもしれない。

つまり、強者のルールで回っている日本経済の輪から抜け出せる。

これって、静かな革命と言えるのではないか。

荒唐無稽な原案だが、私が今後取り組んでいきたいことは、究極的にはこういうことだ。

※「革命」という言葉を使っていますが、これは比喩であり、言うまでもないことですが、政治活動的な革命を起こしたいのではありません。私は右でも左でもなく、弱い立場の人がどうやったら幸せに暮らせるかを考えて実行したいだけです

※次回以降のどこかで、「データから見る派遣社員|海外との比較」を淡々と書きたいと思います

※「フルサトをつくる」は、上記の私の考えとは全く関係のない、いろいろと考えさせられる優れた本です

フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

なぜ弱者は連帯できないのか|政治には弱者の支持など必要ないのか

なぜ貧しい人たちは連帯しないのだろう。

「貧しい人たち」という主語は適切ではないかもしれない。
ここで指すのは、毎日真面目に働いているのに、給料が安くてギリギリで生活している人たちのことだ。

貧困がニュースで取り上げられるとき必ず出るのが、「その程度で貧困といえるのか」という意見である。

GDP世界3位の国なのに、子どもの6人に1人は貧困家庭。
この1行だけ読んでも、賃金の水準や所得の再分配がおかしいのが原因であり、自己責任の域を超えていることが伝わると思う。

だが、そういった社会のおかしさは指摘されない。
高年収層は貧困に無関心(貧しい人が身近にいないため、存在が信じられない)で、同じ低年収層どうしで「お前の苦しみは甘え」「自己責任」と叩きあっているような印象を受ける。

また、貧困女性がニュースで取り上げられる時、「女性は風俗で働けるからマシ」という意見が必ず出てくる。
(実際は、男性も体を売って稼ぐことができる)
本当は、男女に分かれて互いを叩きあったりせず、ともに体を売らずに暮らしていける社会を作るために意見を出し合う方が建設的なのに、決してそうはならない。

個人レベルの話に落とすと、お金がなく攻撃的な一面も持つ、あるブロガーがいる(私はその人の文章が好きだ)。
不思議なのは、その攻撃性が「真面目に働いているのに暮らせない社会」には向かわず、障害年金や生活保護をもらっている人、または夫の給料で暮らしていける主婦などの「個人」に向かっていることだ。
もし、その攻撃性が、批判や分析という正しい形で社会に向かったら、共感されて力を得るかもしれないのに。

同じレベルの他人が「ズル」をすることが許せない

なぜ貧しい人たちは連帯しないのか。それは、

同じレベルの他人が「ズル」をすることが許せないからではないか。

「ズル」とは、本当のズルではない。
あくまで、叩く側が「ずるい」と思う事柄だ。

例えば、「自分は耐えている苦しみを、他人が耐えられずに主張すること」「女であること(風俗で働けるから)」「障害年金や生活保護をもらうこと」などだ。

「ズルをするな」「自分の方がつらい」「お前の苦しみは甘えであり自己責任だ」で議論が終わってしまう。

本当は、ズルをしているのは、人々が真面目に働いても暮らしていけないほど、賃金を抑えている企業や、それを許している政治だと思う。

ここのところ、過去最高益を出している企業が多いが、非正規雇用者にはその利益は全く還元されない。

どこにお金は流れているのだろう。

国際NGOのオックスファムは「富豪8人の資産=世界の下から半分にあたる約36億人の資産」という発表をしている。

日本でも同じことは起きているのだろう。
大企業の経営者は、タックスヘイブンで税金を逃れたり、海外に巨額投資していたりして、日本国内にお金が回らない。

「自己責任」という言葉の効果は絶大だ。

強者がズルしやすく、弱者から奪いやすい社会構造。
「自己責任」の言葉一つで、その構造から目をそらさせ、強者への批判を封じ、弱者どうしで戦わせることができるのだから。

政治家は、弱者からの支持などいらないのではないか

弱者が個人として連帯できないなら、政治を介することで連帯することはできるのだろうか?

私は、派遣社員制度を作り上げた自民党が嫌いだが、かといって、民進党や共産党も支持できない。

(これは後日書くが)日本より後進国でも、法律で派遣社員を制限して、それが効果をもたらしている国もある。
たぶん、政治家が本気でやろうと思えば、できることなのだ。

2016年12月現在で、非正規雇用者の割合は37.7%と、賃金労働者の約4割を占める。
もし、本気で日本を憂うる政治家がいて「非正規党」を作ったら、氷河期世代は人口も多いため、かなりの支持を集めるのではないか。

だけど、本来は左派の仕事なのに、民進党も共産党も非正規雇用の改善にあまり積極的なようには見えない。
憲法9条や原発、自民への攻撃それ自体の方が、ずっと重要と思っているように見えるのだ。

私がアメリカのサンダースを初めて知ったのは、NHKのほんの3分くらいの特集コーナーだった。
しかし、惹きつけられるのには3分もいらなかった。

日本の左派には、たとえポーズでも、サンダースのように自らが弱者の味方だと分かりやすく表明している政治家は少ないように思う。
そして、そういう政治家が表舞台に出てくることも少ない。なぜか。

もしかしたら、日本の左派政党は、弱者の支持票など必要としていないのではないか。

氷河期世代は我慢づよい。
いまの若い世代よりはるかに厳しかった受験戦争を勝ち抜いても、就職先がなかった世代。
だけど、それは「自己責任」とされて封じ込められた。
何の声もあげなかった。

投票率を考えると、政治家は団塊の世代の方を向く。

団塊の世代にとって、非正規雇用者は遠い存在である。
自らが恵まれた時代に生まれた幸運は考えず、非正規雇用者を「努力しなかった者」と切り捨てている。
団塊の世代の票が欲しいなら、非正規雇用の対策には、むしろ力を入れない方がいい。

政治的には、声をあげない者は、いないと同じだ。

今後、氷河期世代が社会問題になる時は必ず来る。
それは、援助できる両親が亡くなった時、または、両親を介護するお金が出せずに共倒れする時だ。

その前に、弱者どうしが「自己責任」で殴りあうのではなく、右左にとらわれず、連帯して声をあげていく(政治的に存在感を示す)ことが必要なのではないか。

※本当は、連帯できない理由を、労働組合や非正規雇用者ゆえの分断という側面から見た方がよいのだけど、今回はいま直感的に感じていることをメモとして残した。このテーマについては、もっと勉強した上でまた書きたい。

※私が政治についてあまり書かないのは、結局は、いまの政治は弱者を救えない、弱者は強者のルールの上で踊らされるのではなく、強者のルールから外れた経済圏を作って、その中で暮らすことが解決策の一つだと(現時点では)思っているからだ。

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高学歴者が雇用関係から抜け出せないから、サラリーマンの給料が上がらない

社会における立ち位置も考え方もちがう人(Aさんとする)と話をする機会があった。
そこで考えたことをメモしておきたい。

私はAさんを、意見交換できる相手として得難い人だと思い、とても尊敬している。
だから、途中でAさんの選択に疑問を投げかける描写が出てきても、それは決してAさんを批判するものではなく、この文章の構成上やむを得ないものだと思ってほしい。

夢は夢、仕事は仕事という選択

Aさんは、高学歴・高収入なサラリーマンである。
だけど、会社員のままではたぶん実現できない夢を持っていて、Aさんの人格の大部分はその夢と理想で構成されているような印象を受けた。

Aさんはとても頭がいい。
これだけ知識があって、話が上手くて、情熱がある人が、やりたいことに取り組まないのは勿体ないし、大げさだけど日本社会にとっても損失なのではないかと思う。

定時で帰れるなら夢と仕事を両立できるのかもしれないが、Aさんはハードワークである。
Aさんはかなり貯蓄があるだろうから、今から起業すればいいのにと思った。

「生きるのに必要最低限だけ働けばいい」というのは「地に足がついていない」考え方か

脱線するが、私は「生きるのに必要最低限しか働かなくても、生きていける社会」を作ることに貢献したいと思っている。

なぜかというと、自分が過労のために病気になって退職し、一旦レールを外れた後は二度とレールに乗れない人生を送ってみて、「社畜の働き方は虚しい」と思ったからだ。

皆が責任感から馬車馬のように働く日本社会で、得しているのは経営者だけなのではないか。
皆が雇用されたがるから給料が上がらない。それなら、現在の雇用システムから離れる選択をする人が増えれば、人手不足で雇用される人の給料も上がるのではないか。

それで、私は正社員という雇用関係のレールから外れるしかなかった人間だが、同じような人や自ら外れたい人がどうやったら良く生きていけるのかを、一生を通して考えて活動したいと思っている。

でも、そうした考え方は、Aさんと似た立場の人から見れば、「現実的ではない、地に足がついていない」考え方と映るのかもしれない。
(注:Aさん本人は、私を全く批判していない)

家族・肩書き・年収という常識

例えばAさんは、「男が稼いで女にお金を出すものという考え方にとらわれず、お金がある方が出せばいい」という考え方は現実的ではない、と思っている。

具体的な表現は忘れたけど、「お嬢さんの残りの人生を僕にくださいというにはお金が必要だし、結婚をしなくても、親の介護にもお金が必要。必要最低限しか働かないという考え方では、その金額を出せない」という主旨のことを言っていた。

私は、Aさんの男らしさに驚き感動したのと同時に、「ちょっと古い考え方だな」とも思った。

しかし、私の義弟は32歳だが、首都圏住みなのに20代で妹のために家と車を買い、「俺の周りはみんな家買ってますよー」と言っていたことを思い出した。

たぶん、世代に関係なく、そうした日本人らしい美しい責任感がある男性とない男性がいるのだろう。

Aさんは結婚していないので、夢のために起業するというリスクを取れないこともない。
でも、Aさんが起業することはないだろう。

Aさんが言うには、高学歴者の同級生どうしで、肩書きや年収を意識しあって、「お前ならもっと稼げるのに」と突っ込まれることがあるそうだ(ネタかもしれないけど)。

肩書きと年収を重んじる人であれば、起業なんて「地に足のついていない」とんでもない話だろう。

日本にも、人知れず稼いでいる人がいる

私は、年収(年商じゃない)が億単位の個人経営者の会社で、経理をやっていたことがある。

その社長が成功したのは、ある知られざる儲かる分野で先駆者になり、早い者勝ちで優秀な協力者を囲い込むことができたからだ。
その分野に目をつけたこと、優秀な協力者とコネを結べたことは確かにすごいが、運もかなり左右しているので、再現可能なビジネスモデルではない(事実、社長の他の事業は失敗している)。

その社長は、私立の三流大卒である。
経営者の素質に学歴は全く関係ないが、その社長が話すのは「成功した自分すごい」ばかりで、成功した時点で思考が止まってしまっているので、私にはあまり頭がいいように思えなかった。

でも、稼ぎはすごかった(経理だったので金の動きを見ている)。
さらに、社長は週3回くらいしか働いていなかった。それも、自分が本当にやりたいことしかやっていなかった。
その会社は十年以上続いている。だから、いま会社をやめても、もう一生働く必要ないほど稼いでいる。
(この話は身バレするので、これ以上は親しい人にしか話せない)

私が知らないだけで、この日本でも、人知れず稼いでいる人はたくさんいるのだろう。

そして、高学歴者のサラリーマンは、そういう人たちの存在を知らないと思う。
なぜなら、高学歴というカードを失ってまで起業する人は本当に少ないため、高学歴者の世界にはそういう人は存在しないからだ。

頭のよさなら、Aさんの方がはるかに上だ。
2人がちがうのはただ、「常識や安定を捨て、リスクを取ったか」ということだけだ。

大企業のサラリーマンの給料は、その働きに見合っていないのではないか

私は、「大企業のエリート層の給料は、その働きに見合っていない(低い)のではないか」と思っている。

各国大手企業の役職階級別の年収を、日本の課長級を1として指数化したデータがある。

日本では、課長が1、部長は1.36、部門長が約1.7となる。
対して、ドイツの部門長は約2.9、中国・USAが約2.6、ロシアが約2.5、タイですら2.24と、日本はぶっちぎりの最下位である。
(詳しくは「日本の部長の給料はなぜ世界最低レベルなのか」を参照)

理由は簡単で、「日本のサラリーマンは、転職したり起業したりしないから、給料を上げる必要がない」のである。

厚生労働省「平成26年度版 労働経済の分析 第3章第1節 我が国における職業キャリアの現状」によると、日本では2人に1人が新卒時に入った会社に定年まで勤める。

以下のデータは、以前寄稿した記事「『起業する若者が日本に増えない理由』を論証してみた」から引用するが、起業者・起業予定者の割合を調べた国際調査では、日本は最下位で、その割合はアメリカの3分の1だった。

理由の一つとして、「失業者が就職先を見つけやすい国ほど起業がさかん」という仮定がある。
アメリカは失業者の就職確率が30%以上であるのに対し、日本は10%台前半だった。

こんなデータを挙げずとも、日本はキャリア上の失敗が許されない国だから、みな転職や起業などのリスクを取らないというのは、体感として分かっていただけるのではないかと思う。

優秀な人が雇用関係から抜け出せなければ、日本は少しづつ衰退していくのでは

Aさんの話を聞いて、私はAさんの選択を批判するのでは全くなく、ただ、「日本は、とことん経営者に都合のいい構造になっているのだなあ」と思ったのだ。

配偶者や家族を養うべきという美しい常識(もちろん必要性も多々ある)や、肩書きや年収への意識、そして安定志向に縛られて、高学歴で有能な人ほど会社との雇用関係から抜けられない。
働き方は、サラリーマンだけではないのに。

優秀な人が移動しないから、会社も高給を出す必要がない。
だから、管理職の給料も国際的に低いまま。

優秀な人が雇用関係から抜け出せず、やりたいこともできず疲弊していくから、日本は少しづつ衰退していっているのではないだろうか。

……そう思うのは、Aさんが日本社会の常識の中で懸命に生きているのに対し、私は既にその価値観から外れて、レールの外側からこの社会を眺めているからなのだろうか。

おさるのジョージに嫉妬している

おさるのジョージに嫉妬している。


姪(妹の子ども)が生後6ヶ月になった。

私は2人姉妹の長女で、子どもはいない。
姪は私の両親にとって、長い間待ちに待った初孫である。

妹夫婦は、私と両親が住む実家から離れたところに住んでいるので、1ヶ月に1度くらいしか会えない。

妹たちはよくできた夫婦で、もろもろのお祝いのお礼として、2月下旬に両親と私を温泉旅行に招待してくれた。

現地待ち合わせで、フロントで妹に背負われた姪の、顔ぜんぶが口なんじゃないかというくらいの大きな大きな笑顔。
それを最後に、その後じじばばに囲まれて真顔になった時から、姪は人見知り期に入ってしまったのである。

その後、3月に会った時は、2日かけて抱っこしたり歌を歌ったり絵本を読んだりを積み重ねて(なおレロレロは禁じられている)、帰る間際に、やっとやっと一瞬だけ声をあげて笑ってくれたのだ。

だがそれも、私が帰って、次にLINEでビデオ通話をした時には、すっかり真顔に戻ってしまった。


両親と私は、姪が大好きである。
いや、好きという域を超えて、姪のエキスを吸って生きるゾンビみたいになっている。

母にプライム・ビデオを見せるために買ったFire TV Stick (New モデル)で、妹がLINEで送ってくる姪の写真と動画を、TVの大画面で見ている。

妹が写真などを送ってくると、「写真だ」「写真だ」「動画だ」「動画だ」と甘露に群がるアリのように、わらわらとテレビに集まる。

気のきいた感想もなく、「かわいいねえ」「かわいいねえ」とひたすら繰り返して動画だのを鑑賞し、またわらわらと持ち場に戻っていく。

姪が生まれて初めて、「相手が生きているだけでいい」というのはどういうことかを知った。

姪が生きて動いているだけで、私たちは本当に幸せになれるのだ。
母の物忘れへの憂いを束の間忘れて。


だけど、人見知り期に入った姪は、私たちには笑いかけてくれない。

これは辛い。経験したことないような超絶片想いである。

私のスマホの待ち受けは、何千枚の写真から選りすぐった、姪の一番かわいい笑顔だ。
朝も昼も夜も、スマホ自体は使わなくても姪の笑顔だけは見て、「かわいいねえ」と日々百回くらい思ってる。
プラス、姪が笑っている写真やら動画やらをいつも見ている。

だけどあれは、撮影している妹か義弟への笑顔であり、私たちへの笑顔ではない。

LINEでビデオ通話すると、そのことを思い知らされて辛いので、今は週1回しか通話していない。


そこでおさるのジョージである。

私たちには笑ってくれないのに、テレビにおさるのジョージが出てきただけで、けらけらきゃっきゃっと声を上げて笑っていることが、動画で判明したのだ!

これはもう、超絶嫉妬である。
私は恋人のために嫉妬したことはないが、ジョージには嫉妬する。

なんだよー、ジョージなんて、ただちょっと可愛くて、テレビをつけたらいつでも会えるだけじゃん!
捨て身でレロレロしなくても、画面に出てくるだけで笑ってくれるなんて……。

いや、可愛くもなく、いつでも会えない私たちなんて、どうしてもジョージにはかなわない。

なんてったってヤツは、子どもたちのスーパーアイドルなのだ。
姪をたぶらかすのもお手のものなんである。

だから、次に姪に会う時には、ジョージを打ち負かすようなスペシャルな施策を考えたいんである。

さるの着ぐるみとかどうかな。リアルジョージって思ってくれないかな。
でも、姪のためにさるの着ぐるみを着る、子なしの中年女性かあ。物哀しいなあ……。

しかし、妹はちゃんと分かっていて、すでに釘をさされている。
「おねえたち、はしゃぎすぎるから、姪が人見知りするんだよ」と。

重すぎる愛情は、赤子でも戸惑うのかもしれない。


ほんとは昨日、近況報告をしようと思ったのですが、気がついたらよく分からん恋愛の話を書いていて、そのまま忘れてしまっていました。

というか、phaさんの記事に言及するなら、どう考えても3月のゆるくできる仕事についての記事なのですが、phaさんの本を読み返して地方移住とか自給自足とか考えているうちに、もっと考えないと書けないと思って延期にしました。
あと、ねねさんの安楽死の記事への言及とか、書くといって書いていないものがたくさんあるのだけど、難しいものはあまり書けなくて、よく分からん恋愛の話は書けるという……。

さて、2月に暗い記事を書いたまま、ブログを更新せずtwitterなどもやっていなかったので、ご心配してくださった方々もいて、誠に申し訳ありません、そしてありがとうございます。

「ブログのこれから、私のこれから」で書いたように、今年の4月から仕事を辞めていろいろな活動をしていくつもりだったのですが、家庭の都合でお金が必要となり、ちょっと延期になります。
でもあきらめたわけではなく、皆さんに見えないところで、ひそかに準備をしております。

なので、このブログが放置されていても(まあいつものことですが)、「何かやってるんだなー」と思っていてください。

家庭の事情が大きく動かなければ、夏か秋には何らかの活動をしたいし、このブログもやめるつもりはないです。

なんでブログが書けないかというと、下調べが必要な記事に取り組む時間と気力が今はない、ということなんですが、書きたいこと自体はたくさんあって、放置するといいつつも、何かの拍子でスイッチが入って書き出すこともあると思います。

……っていつも言っていて「またかよ」って感じですが、長い目で見守ってくださると幸いです。