ニャート

パニック障害で退職→ひきこもり→非正規雇用の氷河期世代。だめ人間が何とか日常を投げずに生きていくためのメモ書き。

社会問題の解決よりも、提起者の「落ち度」「不公平」叩きを優先する現象

先日の「駆け込み寺を作るために仏教を学ぶことにした」を読んでも、「心を病んだ人の逃げ場を作るために、私がなぜ宗教を必要としているか(なぜ政治を見限ったか)」は分からなかったかもしれません。

今日の記事でも書きつくせませんが、これから少しづつ書いていきます。

社会問題を提起する「資格」を問われたはあちゅう氏

2017年12月に、有名ブロガーのはあちゅう氏が、電通在職中の上司だったクリエイターの岸氏から受けたセクハラ・パワハラを、実名で告発しました。

はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」

はあちゅう氏は炎上ブロガーとして位置づけられることが多く、私もあまり彼女を好きではありません。
それでもこの告発には、個人的な好き嫌いを吹き飛ばすだけの力がありました。
私は、心からの尊敬と絶賛をはあちゅう氏に送ったのです。

ですがその後、「お前も過去に童貞いじりをしただろう」という指摘に対し、はあちゅう氏は下記のツイートをしました。
結果、最初の告発が完全に無になるほど、激しく炎上しました。

確かに、はあちゅう氏が何故こんな発言をしたのか、ねらいが分かりません。

しかし、私はこうも思いました。

はあちゅう氏を叩いてスッキリするよりも、今はもっと大事なことがあるのに。
はあちゅう氏に「告発者の資格」を問うよりも、それは一旦保留して、ハラスメントが横行する電通(ひいては日本企業)の体質を批判し改善を促すことの方が大切なのに。

告発時点では、大きなムーブメントにつながりそうなエネルギーが、ネット上に確かにあったと思います。
あのまま進めば、日本企業にはびこるハラスメント全体を減らすことにつながる何かが起きたかもしれません。

しかし、そのエネルギーははあちゅう氏への個人攻撃に消費され、岸氏や電通への批判はうやむやになってしまいました。
岸氏や電通、そしてハラスメントを抱える会社の経営陣は、ラッキーと思ったことでしょう。

社会問題の解決よりも、提起者の「落ち度」「不公平」叩きを優先する現象

こうした現象は、ネット上の一部で見られます。たとえば、

例1:医師は要休養としたのに職場が対策を取らなかった結果、職員が死産したニュースについて、某市議が「地獄」と発言

市議の『地獄』発言という「落ち度」を叩きたい >>> 職場への批判

中川淳一郎氏が社民党市議の「日本社会は女性にとって地獄」発言に「俺ら夫婦を不幸な人間扱いするな!」と絡んだ挙句「被害者ぶるな」と自分自身が被害者ぶる

例2:現実として痴漢被害があるから、女性専用車両が存在している

女性専用車両は男性差別ととらえ、その「不公平」が許せない >>> 痴漢への批判

つまり、

社会問題を提起する人の「落ち度」を叩きたい または 問題解決によって生まれる「不公平」が許せない >>>>> 社会問題を解決したい

という構図があるように思えます。

「落ち度」「不公平」というのは、叩く側がそう感じた、極めて主観的なものです。

「不公平」は、たとえば、痴漢対策として生まれた女性専用車両や、問題を提起した人の副次的な知名度上昇などを指します。

社会問題を提起・解決する個人や方法に「落ち度」「不公平」があれば、問題の解決よりも、提起した個人や属性を徹底的に叩くことを優先する。

非正規雇用によって格差や貧困が広がっているのに、日本ではストライキが起こらないのはなぜでしょうか。

それは、本来は社会問題解決のために使われるべきエネルギーが、個人や属性への攻撃に消費されてしまい、問題解決のムーブメントへとつながらないからではないでしょうか。

貧しい男性が、もっと貧しい女性を「売春できるから女の方がマシ」と叩いているのをよく見ます(男性でも売春はできます)。
日本において、男女間の給与に格差があることは、OECDなどのデータを引用するまでもなく現実です。

それでも、格差や貧困を生み出している社会を批判することなく、同じ弱者どうしで叩き合ってしまう。
力を合わせて、弱者を生み出す社会の構造を変えていくよう働きかけをする方が建設的なのに。

個人叩きに虚しく失われるエネルギーを、社会をよくする方向に向ける方法はないのだろうか、と私は思うに至ったのです。(続く・またそのうちに)