痛ましい事件が起きた。
「ゲイだ」とばらされ苦悩の末の死 学生遺族が一橋大と同級生を提訴
この記事を読んだ時、ただただ悲しかった。
パニック発作の末に転落死、どれだけ苦しかったことだろう。
この事件には、論点が複数ある。
- 他人が同性愛者であることを勝手に暴露すること(アウティング)への批判
- 加害者が、法曹予備軍という人権に配慮すべき立場であるのに、アウティングしたことへの批判
- 大学や周囲の対応への批判
今日書きたいのは、1について思ったことを半分ほど(それ以外は時間が必要)。
Zくん側は裁判で「恋愛感情をうち明けられて困惑した側として、アウティングするしか逃れる方法はなく、正当な行為だった」と主張してきたという。
(冒頭の記事より引用)
(Aくん:アウティングされた学生/Zくん:アウティングした学生)
「正当な行為」という表現から私が感じたのは、「恋愛感情への困惑」を超えて、「自らの生理的嫌悪感は正義だという確信」だ。
アウティングは、生理的嫌悪感を正当化する多数決
異性愛者が、同性愛者に恋愛感情を告白された時に困惑するのは、仕方のないことだ。
でも、困惑しただけなら、断って忘れればいい。それで足りないなら、距離を置けばいい。
狭いロースクール内で難しかったのだろうが、「Aくんとは考えが合わなくてケンカ別れした」とでも言えばよかった。
確かに、一方的に人の秘密を押し付けられることは重い。
だけど、Aくんと関係のない、ロースクール以外の人にも相談できただろう。
そもそも、LINEグループでのアウティングは、「相談」ではない。
お互い距離を置いて、勉強に集中して、忘れる、それが一番よかった。
Zくんが「アウティングするしか逃れる方法はなかった」と言ったのには、「困惑」以上の強い意志を感じる。
アウティングの根底には、同性愛者を「変」と感じている前提がある。
同性愛者を「普通」と感じていれば、晒しても意味がない。
このロースクールの人間関係には、もともと下記のような土壌があった。
Aくんはそれまで、ロースクールの同級生たちが同性愛者を「生理的に受け付けない」などと話しているのを聞き、ゲイであることを秘密にしていた。
(冒頭の記事より引用)
「困惑」という感情に留まっていたなら、アウティングまでする必要はなかった。
自分の生理的嫌悪感を正当化するために、多数決を利用したのかもしれない。
望まれない恋愛感情は暴力か
告白された側が、告白した側を「生理的に受けつけない」、つまり「キモい」と思う場合、「恋愛感情を向けられること自体が暴力」とまで感じる人もいる。
この場合、恋愛感情は100%の性欲で成り立つかのように極端化される。
つまり、「キモい奴に、お前とヤリたいって思われた。これは暴力だから、暴力で返していいよね」となる。
「キモい」と感じた側は、「キモい」と感じられた側の生殺与奪権を持ち、「お前キモいんだよ」と晒すことで断罪し、自らの生理的嫌悪感の正しさを主張する。
「お前キモいんだよ」は正義、絶対に間違っていないと。
今回の事件を語る中で、こんな書き込みがあった。
敢えてどぎつい書き方をすると、「寛容な社会」を標榜する方々は、 相手からゲイだと告白され、さらには好意を持っていると言われることの意味を本当にわかっているのかな?
あなたが男性だった場合、それは「あなたの○○をしゃぶりたいんだ。できればあなたの○○にも入れたいんだ。(もしくはあなたの○○を○○に入れて欲しいんだ)」を意味するんだよ?カムアウトすれば自由になれる、という妄想 ※伏字は筆者
恋愛感情は、性欲だけで構成されていない。
中には、人間としての純粋な尊敬もあり、性欲の対象でなくても感じるだろう友情もある。
性欲だって、挿入欲だけではない。
ただ手を握りたい、隣に座っていたいという気持ちも、広義の性欲に入る。
性器にまつわる欲求は、恋愛感情の中のほんの一部だ。
そもそも、その人がどんな恋愛感情を抱いているか、それが自分にとって「キモい」ものかなんて、誰にも分からない。
相手のプライベートな感情を勝手に想像して断罪し、自らの想像力の無さを露呈する方が、よっぽど「キモい」。
人を好きになるというのは本来は美しく密やかな感情で、あなたはその柔らかい心のひだを打ち明けてもらったのに。
生理的に受け入れられなくとも、せめて、繊細な感情を持った対等な人間として、相手を尊重してほしかった。