今後、日本がますます沈没してきたら、真っ先に切られるのは氷河期世代という話。
覚悟していることがある。日本がいよいよ低迷してきて「若い世代にちゃんとお金を使おう! 年金の支給減らして高齢者への諸々の優遇もなくそう!」となったとき、高齢者になっているのは若い頃からさんざん苦労してきた氷河期世代でした、というオチが待っていることを……
— 真弓創 (@nofun1978) 2022年10月19日
政府のいう「氷河期世代の人生再設計」は「今から結婚して子を成せ」なんて話ではなく、実は「生活保護に頼らず静かに死んで行け」って意味です。
— 木曽崇@国際カジノ研究所:飯テロ警報発令中 (@takashikiso) 2022年10月13日
氷河期世代の人生を本当に心配しているなら、とっくの昔に動いてる。今更動き始めたのは、氷河期世代の親に寿命が迫り、彼らが社会圧迫をし始めたから。 https://t.co/PFs42Ftkpx
まあそうなるよね。
この話、このブログで何回するんだよという感じだが、氷河期世代は政治から見放されているのに団結できない、ではどうするかについて、今日は頭を真っ白にしてもっとゆるく考えてみたい。
氷河期世代が個人で政治的主張をするのは効果的ではない
私の実体験から思うに、個人がブログなどで氷河期世代の待遇改善を訴えるのは、自らにヘイトを集めるだけであまり効果的ではない。
主張の内容ではなく、個人の属性が注目されて「自己責任」と叩かれて終わるだけだ。また、どうしてもネガティブなイメージになるので、ブロガー個人のブランディングが難しくなる。そうするとブログが苦痛になって続かない(私のように)。
ストライキはハードルが高く「思える」
個人で訴えるのが効果的でないのなら、集団ではどうだろう。
ひとつの方法として、ストライキが挙げられる。労働者に与えられている労働三権はかなり強力で、使わないのはもったいない。
しかし、非正規雇用が長い自分のこれまでを振り返ると(n=1)、金にも気持ちにも余裕がない人がストライキを起こすのは、かなりハードルが高く「思える」。これはただのイメージで、実際はそうでもないかもしれないが、気持ちに余裕がない時は実際の着手まではイメージを鵜呑みにしてしまいがちだ。
さらに、自分の待遇改善を訴えるのは恥ずかしいという気持ちがある。「自己責任」の呪いは強大で、訴えないといけないほど待遇が悪いのは自分のせい(自己責任)と考えてしまう。本当はそうではないのだが、ここで「本当はそうではない」と書くのもためらわれるほど心のブレーキが作用している。
このような、「個人の待遇が悪いのは100%個人のせい」という社会的なブレーキを取り除いていかないと、ストライキとそれに対する理解は広がりにくいだろう。このブログでもその試みが論理的にできるといいが。
ゆるく楽しく政治的な主張を集団でできる方法を考えたい
ストライキ権は強力な権利だが、氷河期世代の年代でもなじみのない、時代遅れのスタイルであるとは言える。
ここはガラッと発想を変えて、ゆるく集団でつながれて、楽しく政治的な主張をするスタイルを考えるのはどうだろう。他の世代から見て、ネガティブすぎず疎まれない形で。今はノーアイデアなので、これから考えていきたい。
氷河期世代が集団での社会的活動を避けるのは、思春期にオウム真理教の騒動を目にした影響があるように思える。あの騒動で「集団はダサい」と印象づけられ、個にこだわり、政治的・労働的に最低限必要な集団活動まで放棄してしまっているのでは。
……今日はここまで。
私の近況だが、去年(2021年)の春頃に婚活を始めて現在の婚約者と知り合い、約1年前に実家を出て婚約者と暮らしていた。(つまり両親とは別居していたが)今月、父がアルコール依存症で入院してしまい、認知症の母を現在は私が実家で見ている。ショートステイの手続き等はしているが、これからどうなるか。
↑この段落だけでネタがいっぱいで、これをブログに活かさない手はない。今後このブログは、「アル依の父と認知症の母」と婚活コラムと検索用記事、合間に氷河期世代のゆるい記事で考えている。